梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

2015年のブログ記事

2015年(ムラゴンブログ全体)
  • 「愛着障害」(岡田尊司・光文社新書・2011年)要約・16

    《おわりに 愛着を軽視してきた合理主義社会の破綻》 ・この数十年、社会環境が、愛着を守るよりも、それを軽視し、損なう方向に変化してきた。 ・効率的な社会において、人間の根幹である愛着というベースが切り崩されることによって、社会の絆が崩壊するだけでなく、個々の人間も生きていくのに困難を抱えやすくなっ... 続きをみる

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  • 「愛着障害」(岡田尊司・光文社新書・2011年)要約・15

    2 いかに克服していくか ⑴安全基地となる存在 ・愛着の原点は、親との関係で育まれる。愛着障害は、そのプロセスで躓いている。それを修復するには、親との関係を改善していくことが、もっとも望ましい。 ・しかし、親の方も不安定な愛着の問題を抱えていることも多く、子どもに対する否定的な態度を改めようとしな... 続きをみる

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  • 「愛着障害」(岡田尊司・光文社新書・2011年)要約・14

    《第6章 愛着障害の克服》 1 なぜ従来型の治療は効果がないのか 【難しいケースほど、心理療法や認知行動療法が効かない理由】 ・「心理療法」「認知行動療法」で効果が得られにくいのは、「愛着障害」という観点が 導入されていないからである。 ・愛着障害や不安定型愛着に対する治療は、未発達の分野である。... 続きをみる

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  • 「愛着障害」(岡田尊司・光文社新書・2011年)要約・13

    《第5章 愛着スタイルと対人関係、仕事、愛情》 1 安定型愛着スタイル 【安定型の特徴】 ・安定型の第一の特徴は、対人関係における絆の安定性である。自分が愛着し信頼している人が、自分をいつまでも愛し続けてくれることを確信している。自分が困ったときや助けを求めているときには、それに必ず応えてくれると... 続きをみる

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  • 「愛着障害」(岡田尊司・光文社新書・2011年)要約・12

    《第4章 愛着スタイルを見分ける》 【愛着スタイルが対人関係から健康まで左右する】 ・それぞれの愛着スタイルは、「作業モデル」と呼ばれる行動のプログラムをもっている。それは、幼いころからこれまでの人生のなかで作り上げられてきた、行動や反応の鋳型であり判断基準である。 ・このプログラムの特異な点は、... 続きをみる

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  • 「愛着障害」(岡田尊司・光文社新書・2011年)要約・11

    【自分を活かすのが苦手】 ・不安定愛着型の子どもは、自分の可能性を試すことについて、過度の不安を感じたり、投げやりで無気力になったり、最初から諦めていたりしがちである。その結果、自分の可能性の芽を摘んでしまうことも多い。 ・愛着障害の人は、自分の潜在的な能力を活かせていないことが多い。 【キャリア... 続きをみる

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  • 「愛着障害」(岡田尊司・光文社新書・2011年)要約・10

    【発達の問題を生じやすい】 ・子どもは愛着という安全基地があることで、安心して探索活動を行い、認知的、行動的、社会的発達を遂げていく。愛着は、あらゆる発達の土台でもあるのだ。愛着障害があると。発達の問題を生じやすい。 ・安定した愛着の子どもは、自分一人では手に負え合い問題に対して、助けを求めたり、... 続きをみる

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  • 「愛着障害」(岡田尊司・光文社新書・2011年)要約・9

    《第3章 愛着障害の特性と病理》 【愛着障害に共通する傾向】 ・愛着障害には回避型と不安型のような正反対とも言える傾向をもったタイプが含まれるが、その根底には、大きな共通点がある。 ・愛着障害は、素晴らしい能力とパワーをもっている。 【親と確執を抱えるか、過度に従順になりやすい】 ・親との関係をみ... 続きをみる

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  • 「愛着障害」(岡田尊司・光文社新書・2011年)要約・8

    【親の愛着スタイルが子どもに伝達される】 ・「親の不在」「養育者の交替」といった問題のないふつうの家庭に育った子どもでも、三分の一が不安定型の愛着パターンを示し、大人のおよそ三分の一にも、不安定型愛着スタイルが認められるのはなぜか。それは、親の愛着スタイルが子どもに伝達されやすいからである。 ・母... 続きをみる

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  • 「愛着障害」(岡田尊司・光文社新書・2011年)要約・7

    《第2章 愛着障害が生まれる要因と背景》 【増加する愛着障害】 ・子どもの数が減り、一人ひとりの子供が、手厚く大切に育てられているはずの現代において、愛着の問題を抱えた子どもだけでなく、大人までも増えているという現実がある。 (虐待、育児放棄、境界性パーソナリティ障害、依存症、過食症、「草食系男子... 続きをみる

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  • 「愛着障害」(岡田尊司・光文社新書・2011年)要約・5

    【ストレスと愛着行動の活性化】 ・何か特別な事態が生じて、ストレスや不安が高まったときには、「愛着行動」が活発になる。それが健全な状態であり、自分を守るために重要なことである。 ・愛着行動には、さまざまなヴァリエーションがある。(幼い子ども→直接行動、フランクル→愛する人を回想する) ・愛着行動は... 続きをみる

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  • 「愛着障害」(岡田尊司・光文社新書・2011年)要約・4

    【親を求めるがゆえに】 ・愛着を脅かす、もう一つの深刻な状況は、守ってくれるはずの親から虐待を受け、安全が脅かされるという場合である。この場合、子どもは親を求めつつ、同時に恐れるというアンビバレントな状況におかれる。しかも、親がいつ暴力や言葉による虐待を加えてくるかわからないといった状況は、子ども... 続きをみる

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  • 「愛着障害」(岡田尊司・光文社新書・2011年)要約・3

    【愛着の絆と愛着行動】 ・いったん、愛着の絆がしっかりと形成されると、それは容易に消されることはない。愛着におけるもう一つの重要な特性は、この半永久的な持続性である。(「母をたずねて三千里」のマルコ少年) ・愛着の絆で結ばれた存在を求め、そのそばにいようとする行動を、愛着理論の生みの親であるイギリ... 続きをみる

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  • 「愛着障害」(岡田尊司・光文社新書・2011年)要約・2

    《第1章 愛着障害と愛着スタイル》 【あなたの行動を支配する愛着スタイル】 ・愛着スタイルは、その人の根底で、対人関係だけでなく、感情や認知、行動に幅広く影響していることがわかってきた。パーソナリティを形造る重要なベースとなっているのである。 ・安定した愛着スタイルのもち主は。相手が助けになってく... 続きをみる

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  • 「愛着障害」(岡田尊司・光文社新書・2011年)要約・1

    《はじめに 本当の問題は「発達」よりも「愛着」にあった》 ・人間が幸福に生きていくうえで、もっとも大切なもの・・それは安定した愛着である。愛着とは、人と人との絆を結ぶ能力であり、人格のもっとも土台の部分を形造っている。 ・昨今。「発達障害」ということばが盛んに言われ、それが子どもだけでなく、大人に... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・テレビ

     昭和35年以降、日本の家庭にはテレビが爆発的に普及、老いも若きもその魅力に取り憑かれた。とりわけカラーテレビが出現することによって日本人の「色彩感覚」は一変したと思う。私の父は、多くの子どもたちがその画面を食い入るように見つめている様子を見て「これで日本はダメになる」と呟いたが、事実、日本人の「... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・不良

     中学2年が終わる春休み、私はK君、H君と三人で、郊外・深大寺周辺の風景を写生しに行った。私以外は、油絵の具、イーゼル持参、本格的な装備だった。裏手の草原(今の神代植物園の辺り)で、楽しく絵を描き、弁当を食べ終わった頃であろうか、向こうの彼方に五、六人の人影が見えた。何気なく眺めていると、その人影... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・弁当

     中学に進学すると、昼食は弁当持参となった。裕福な家庭の生徒は魔法瓶にお茶を入れ、白米用の弁当箱の他に、卵焼き、鮭、ウインナーソーセージ、サラダなどの総菜用の弁当箱が加わった。リンゴ、ミカンなどのデザートを持参する者もいた。弁当が準備できない家庭の生徒は「パン券」を利用した。それに記名して指定の箱... 続きをみる

  • 私の戦後70年・音楽の授業

     中学校の音楽の授業は苦痛だった。先生は見るからに軍人上がりといった風貌で、雰囲気は厳格そのもの、課題曲の歌詞を長々と説明した後、ニコリともせずピアノを伴奏して生徒に歌わせる。集中力が薄れてざわつきでもしようものなら、たちまち「そこのお前、何をしているんだ!」という怒声がとんでくる。私は「音を楽し... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・新聞配達

     小学校時代から仲良しのK君が中学2年で新聞配達を始めた。彼は得た賃金で文庫本「次郎物語」を読んでいる。その姿がたまらなく魅力的でうらやましかった。「自分もやりたい」と私は父に懇願し承認を得た。さっそくK君に頼み込み、繁華街周辺の「夕刊配達」を始めた。「読売新聞」に混じって「毎夕新聞」「サン写真ニ... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・体育大会

     小学校の運動会は中学では「体育大会」、徒競走は100メートル走と名称が変わった。陸上競技部員だった私は、当然100メートル走で1着にならなければならない。クラスメートはそうなるものと期待して、私のスタートに注目していた。しかし、結果は意外にも着外、「ナーンダ」という侮蔑の声があちこちで聞かれた。... 続きをみる

  • 私の戦後70年・陸上競技部

     中学1年生になり、私は陸上競技部に入部した。野球部、ハンドボール部などに比べて人気は薄く、新入部員は三人だけであった。初めての活動日、部長は私たち三人に向かって「まじめにやれよ、サボるなよ。」と言った。サボる?、練習するために入ったのだから覚悟はできている、と思ったが、いざ始まると先輩には着いて... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・中学校入学式

     昭和32年4月、私は「学区外」の中学校に入学した。入学式は校庭で行われ、担任が新入生を一人一人、呼名する、呼ばれた生徒は「ハイ」と叫んで起立する。順番が回り、私も返事をして起立、不動の姿勢をとったが、その直後に「笑い声」が上がった。「コウタロウ」という名前が古めかしく、時代遅れだったからであろう... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・学区外通学

     昭和27年の大晦日に祖母を亡くし、父と私は文字通り「父子家庭」の生活を始めた。 申し込んでいた公団住宅が当たったので、これまでの間借生活は終了、他区に新築された鉄筋コンクリート4階建ての公団住宅に転居した。小学校3年生の時である。当然、転校しなければならないが、父は担任の先生に頼み込み、特別に「... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・メガネ

     小学校入学時から私の視力は弱かったが、四年生の頃から黒板の字が見えなくなった。メガネをかけたいと思ったが、恥ずかしくて言い出すことができなかった。クラスの誰ひとりメガネを装用していない。学校の視力検査でも「見えない」ことを隠したい。私は順番がくるまでに検査表の文字列を必死で憶えた。「コ・ナ・ル・... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・神宮球場

     小学校時代の男児の遊びといえば野球、焼け跡の原っぱで、時間を忘れて興じたものである。春・秋には、父に連れられて信濃町の神宮球場に通った。当時の東京六大学野球はプロ野球と肩を並べるほどの人気があった。外野席の芝生に座って観戦することが多かったが、私は極度の近視のため、ボールの行方を追うことができな... 続きをみる

  • 私の戦後70年・学校給食

     戦後の小学生は、昭和33年頃まで給食で「脱脂粉乳」を飲まされた。喜んで飲む子どもは少なく、ほとんどが目をつむり鼻をつまんで一気に飲み干す。中には隠れて流しに捨てる子どももいた。当時の小学生は毎日、給食袋にアルミの皿、コップ、椀を入れて登校した。給食の献立は三品、コッペパン、ミルク、総菜だけであっ... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・友だち

     小学校の一学級は50名を超えていた。いずれも敗戦の中で生まれた子どもたち、父が戦死した母子家庭4人、養父1人、父子家庭3人など戦禍の傷跡が残っていたが、時代は「新生日本」に向かって第一歩を踏み出す。その息吹の中で、大人も子どもも希望に満ち溢れていた。私たちの学年は6年間、編制替えがなかった。その... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・メエ婆

     私は母方の祖母をメエ婆と呼んでいた。メガネをかけていたからである。彼女は、戦前から「祖父に分家させられて」、娘一人とともに下宿屋を営んでいた。近くにある旧制高校の学生が多く利用したという。私の父もその一人、母は下宿屋の娘ということである。父は成人して満州に渡り、母もその後を追ったが、私を出産後ま... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・静岡浅間神社廿日会祭

     静岡市の浅間神社では恒例の廿日会祭が四月初旬に開催される。小学生の私は、毎年春休みになると、亡母の実家がある静岡の祖母宅に帰省して、そのお祭りを楽しんだ。満開の桜が散り始める神社の境内では、神楽舞台の他、大衆芸能の余興用舞台、オートバイサーカス、お化け屋敷、見世物小屋などが特設される。仲町から赤... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・「太郎花子国語の本」(教科書)

     小学校の国語教科書は「太郎花子国語の本」であった。一年から六年まで一貫して太郎、花子の兄妹が登場し、その生活が描かれる。今、私の手元には「おはよう」「あかいとりことり」「ゆうやけこやけ」(一年上中下))、「ひばりのうた」「青いお空」(二年上下)、「みどりの教室」(四年上)「田園のしらべ」(六年上... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・蓄音機

     昭和26年、上京した父と祖母、私の三人は山の手の親類宅に「仮住まい」した。親類の家族は四人、合わせて七人が八畳、六畳、三畳、物置、台所の瀟洒な平屋住宅で雑居することになった。当時の娯楽はラジオ中心、一同は「のど自慢」「二十の扉」「とんち教室」「三つの歌」「今週の明星」等々の番組を楽しんだが、親類... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・キャラメル

      昭和20年代後半、小学生男児の嗜好品はキャラメルであった。その魅力は何よりも強力な「甘味」だが、それ以上に箱の中のカードの一枚、一枚が射幸心を煽った。東京では「紅梅キャラメル」「カバヤキャラメル」が覇を競う。紅梅のカードは「ヒット」「二塁打」「ホームラン」などと記されており、集めて得点すると巨... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・白いかげろう

     私が物心ついた昭和20年代半ばから30年代にかけて、白衣をまとい戦闘帽を被った男たちが、都心の街角、祭礼の境内、電車の通路など「人混み」の中に出没した。彼らは、たいてい二人一組となって、一人がアコーディオンを奏で、他の一人が軍歌を唄う。「さらばラバウルよ また来るまでは・・・」その光景を目にする... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・遠足

     毎年、春・秋にある小学校の遠足は、その日一日勉強をしなくてよいというだけで、楽しかった。一年・井の頭公園、二年・向丘遊園地、豊島園、三年・ユネスコ村、浜離宮、四年・相模湖、江の島、五年・稲毛海岸、高尾山、六年・城ヶ島、箱根と重ねられた楽しい思い出がアルバムに残されている。しかし、一年・春の一枚だ... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・白いカーネーション

     五月といえば端午の節句、鯉のぼりが空に舞い青葉の美しさが際立つ季節だが、私の心は曇っていた。恒例の「母の日」がやって来るからである。小学校2年の時、担任の先生は「お母さんのいない人は、天国のお母さんに感謝しましょう」と言って、私と、K君、H君に「白いカーネーション」を手渡した。「自分だけではない... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・金魚

     小学校二年頃のことだったか、私は秋祭りの夜店で金魚すくいをした。収穫は和金一匹、ビニールの袋に入れて持ち帰ったが金魚鉢がない。やむなくコップに入れて玄関先に置いた。しかし翌日には和金の姿は消えてしまった。あまりの狭さに跳び出してしまったのだろう。消沈している私を見て、父は豪華な太鼓型の金魚鉢を購... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・祖母の葬儀

     昭和28年1月4日、焼き場は順番を待つ棺でごった返していた。祖母の棺を窯に入れたが、その数分後、誰かが叫んだ。「違う!違う!お棺を間違えた」、一同「えええっ」と驚き、係員が窯の扉を開けて、「熱い!熱い!」と言いながら、再び、祖母の棺を取り出した。釘付けされた蓋を、大急ぎで打ち破る。一同、おそるお... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・《障子の中》

     昭和27年の大晦日、祖母は当時大流行したインフルエンザで病死した。焼き場は「三が日」が終わるまで休業、父と私は祖母の棺と、間借りの八畳一間で「空しい正月」を過ごさなければならなかった。「棺を見守りなさい。生き返るかもしれないから」などと言う父の言葉を信じて・・・。線香の煙と、供物の林檎の匂いが入... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・祖母の死

     昭和28年元旦、その日は快晴であったが、私の心は、どんよりと曇っていた。前日の大晦日、同居していた祖母が、当時大流行していたインフルエンザで、息を引き取ったからである。母はすでに亡く、父と祖母の三人で、八畳一間の「間借り生活」をしている時であった。祖母は72歳、10日間ほど床についた後の、あっと... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・指しゃぶり

     物心ついた時から、私は両手の親指をしゃぶっていた。そうすると、気持ちが落ち着くからである。退屈なとき、淋しいとき、入眠するときは必ずしゃぶっていた。祖母は、親指に包帯を巻き付けたり、辛子を塗ったりして止めさせようとしたが、効果はなかった。父も気に病んでいたようだが、表情を曇らせるだけで何も言わな... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・登校拒否

     昭和26年4月、小学校に入学した私はまもなく「登校拒否」状態になった。理由は単純、仲よしの友だちができなかったからである。近所には同級生もたくさんいたが、彼らは幼稚園時代からの知り合いで、その輪の中になかなか入れない。静岡弁まるだしの私は、その度に笑われた。登校時になると、家の柱にしがみつき、泣... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・小学校入学式

     昭和26年4月、新しいランドセルに草履袋、革靴、学帽、よそゆきの洋服・・・、「ピカピカの一年生」の装いで、私は入学式に臨んだ。しかし、学校に対する恐怖心は増すばかりで、「泣き通し」の一日であった。セピア色になった記念写真には、当時の「泣き顔」が残されている。式が終わって、新入生は教室に入った。皆... 続きをみる

  • 私の戦後70年・身体検査

     昭和26年2月、私は東京の小学校に入学するために上京させられた。まもなく、学校の身体検査(現在の就学時健診)があった。激しい雨の中、親類の女性に伴われて入学する小学校に向かったが、私はすべての検査を「泣いて」拒否した。薄汚れた校舎、厳しい表情で指示する教員、新入生を世話する上級生、東京弁で楽しそ... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・アンヨ婆

     父方の祖母を、私は「アンヨ婆」と呼んでいた。彼女は関東大震災で左足を負傷し、膝下を切断、義足を装着していた。松葉杖で歩行するので荷物が持てない。祖母が銭湯に赴くときは、小学校1年の私が随行する。脱衣所に入り、祖母が義足を外そうとするのを、子どもたちが取り囲み、こわごわと見つめている。彼らの視線は... 続きをみる

  • 私の戦後70年・夜のプラットホーム

     昭和26年2月、父・祖母に伴われて私は静岡を出立、東京に向かった。列車が東京に近づく頃はもう夜だった。横浜を過ぎた頃,車掌がやって来て「東京駅構内で事故が発生しました。この列車は品川止まりになります」という。乗客には不安が走った。今日のうちに目的地まで行き着くことができるだろうか。降り立った品川... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・上京

     昭和26年2月、私は父と祖母に伴われて上京することになった。静岡駅で東京行きの列車を待っていると,下りのホームにアメリカ兵が鈴なりに乗っている列車が入ってきた。彼らは,上りのホームで待っている私たちに向かい,大きな叫び声をあげながらチョコレート,キャラメル,チューインガム,ヌガーなどの高価な菓子... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・Yちゃん

     父の友人夫妻に伴われて満州から引き揚げてきた私は、小学校入学まで静岡市内にある祖母宅で過ごした。その隣家にはYちゃんという、私と同年齢の男児がいた。まもなくYちゃんにはFくんという弟も生まれ、三人は両家宅の庭先で遊び呆けていたのだが、ある時、異変が生じた。Yちゃんの母親が肺結核を発症したのである... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・異国の丘

     真夏のある日、床の間のある八畳間で、祖母はラジオのスイッチを入れた。雑音に混じって途切れ途切れに聞こえてきたのは、「異国の丘」のメロディーだった。「今日も暮れゆく異国の丘に 友よ辛かろ切なかろ 我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ 帰る日も来る 春が来る」まだ五歳だった私に、歌詞の意味など解らない。ただ... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・自家中毒

     五月の中旬だったろうか、夜の10時過ぎ、父の知人が柏餅を土産に訪れた。寝ていた私を起こしていわく「コー坊、美味しいものがあるぞ」。当時の甘い物といえばサツマイモかサッカリン、あん入りの菓子は珍しかった。私はありがたく頂戴し床についたのだが、翌日から体調に異変が生じた。頭が締めつけられる。米兵のG... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・新聞紙

     祖母宅の押し入れには、古い新聞紙が捨てられずに収められていた。私は、それを引っ張り出して、画用紙代わりに絵を描いたり、ちぎったり、まるめたりして遊ぶのが好きだった。祖母は叱りもせず眺めていたが、時には、「折り紙」のようにして、ヒコーキや二艘舟、紙財布などを作ってくれることもあった。5月の節句には... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・跳んで来る少年

     静岡市を流れる安倍川、その上に架かる安西橋の両側には、欄干がなかった。四~五メートルごとに石の柱は残っていたが、柱と柱をつなぐ横棒は鉄製のため、兵器工場に徴発されたのだろう。祖母は、病みあがりの私を乳母車に乗せて、その橋を注意深く渡り始めた。五歳の私が生死をさまよった「自家中毒」から辛うじて快復... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・父との再会

     いつのことかは定かではない。一足先に満州から引き揚げ、祖母の元で暮らしていた私の所へ、兵役から生還した父が訪ねてきた。それまで溺愛されていた私は、人見知りが激しく、成人男性には寄りつかなかったという。その場の一同は、父と私が再会する場面を興味深く見守っていた。父は笑いながら「オイ、コウタロウ、お... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・期待外れ

     満州で父は応召、母とは死別したので、私は父の友人夫妻に保護され引き揚げた。当時は2歳頃(記憶は皆無だが)、夫妻家族とともに母の実家のある静岡駅頭に降り立った。出迎えた母の親族は、私の姿を見るなり、思わず「期待外れだっけやー」と嘆息したという。さもありなん・・・、数年前母が満州へ渡る時、親族は歓送... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・引き揚げ

     私は昭和19年に満州ハルピンで生まれたが、母は翌年の3月に病死した。父は応召され、やむなく友人夫妻に、私を預ける。友人夫妻には三人の男子がおり、末っ子が私と同年齢のため、夫妻は快諾したという。まもなく終戦、引き揚げとなる。夫妻は四人の男子を抱えて過酷な帰途に就くことになった。無蓋車を乗り継ぎ、よ... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・階段のある川

     鬱蒼とした森の茂みの中を一本の小川が流れている。辺りは静まりかえり、水音だけがサラサラとオルゴールのように聞こえる。両岸は竹笹やイヌワラビが生い茂り、その脇のの小道を上流へと進むうち、川の中に段差(堰)が現れた。透明な水が、滝のように流れ落ちる。また進むともう一つ、さらに進むともう一つ・・・とい... 続きをみる

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  • 「自閉症児」の育て方(17) あとがき

    【あとがき】  現代では「哺乳びん」「紙オムツ」「ベビーカー」が育児の《三点セット》になっているようである。親にとっては、甚だ「都合のよい」便利で合理的な用品に違いない。しかし、育児は、それらに頼れるほど《便利》《安直》にできるものではない。子どもを「親の付属物」のように飾り立て、親もまた「スマー... 続きをみる

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  • 「自閉症児」の育て方(16) いくつかの留意点(4)

    ⑷ 「自閉症児」(と呼ばれる子ども)の育児は、まず何を措いても、この「対人関係」に注目し、いつでも、どこでも、完全に「できる」ようになるまで、繰り返し「続ける」ことが肝要である。その具体的方法について、『言語発達の臨床第1集』(田口恒夫編・言語臨床研究会著・光生館・昭和49年)では、以下のように示... 続きをみる

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  • 「自閉症児」の育て方(15) いくつかの留意点(3)

    ⑶ (5歳頃までの)「自閉症児」(と呼ばれている子ども)の実態を「遠城寺式・乳幼児分析的発達検査表」(九州大学小児科改訂版)」(遠城寺宗徳・慶應義塾大学出版会・1977年)で評価すると、子どもによって千差万別の違いがあるが、《「運動」に比べて「社会性」「言語」に遅れがある》という特徴は共通している... 続きをみる

  • 「自閉症児」の育て方(14) いくつかの留意点(2)

    ⑵ 子どもは、「学習」を通して成長・発達する。「学習」とは「学ぶ」ことであり、「学ぶ」とは「真似る」ことから始まる。子どもは生後間もなく《親》と出会い、その《親》とのかかわりを通して、《親》の言動を「真似る」ことによって、成長・発達していくのである。そのためには、《親》を認識し(見分け)なければな... 続きをみる

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  • 「自閉症児」の育て方(13) いくつかの留意点(1)

    4 いくつかの留意点・(1) ⑴ 子どもが「自閉症児と呼ばれる」ようになるのは、通説では「自閉性障害のの基本的特徴は3歳位までに表れる」とあるので、早くて1歳半健診時、遅くて3歳児健診の頃であろう。したがって、その「疑い」もしくは「断定」を受けたときには、すでに1年間以上の「時間」が経過している。... 続きをみる

  • 「自閉症児」の育て方(12) まとめ

    12 「自閉症児」の育て方・10・《まとめ》  「2 基本的な考え方」で述べたように、「自閉症」の《本態》は「人に関する関心・反応が乏しい」という一点に絞られる。したがって、「自閉症児」の《育て方》も、その一点、すなわち「人に対する関心・反応」をどのように芽生えさせ、拡げ、深めるか、ということに「... 続きをみる

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  • 「自閉症児」の育て方(11) 「動作」のやりとり

    11 「自閉症児」の育て方・9・《「動作」のやりとり》  乳幼児は、これまでに述べた「泣くことによって人を呼ぶ」「笑顔のやりとり」「表情のやりとり」「声のやりとり」などを土台として、あるいは《それに伴って》「動作」のやりとりができるようになる。「独り座り」ができ、両手を動かすことができるようになる... 続きをみる

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  • 「自閉症児」の育て方(10) 「物」のやりとり

    10 「自閉症児」の育て方・8・《「物」のやりとり》  「物」のやりとりをするためには、以下のようなレディネス(土台)が必要条件である。①触れた物を握っている(1か月)、②手を開いたり閉じたりする(1か月)、③手を口のもっていってしゃぶる(2か月)、④ガラガラ(玩具)などを少しの間握っている(3か... 続きをみる

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  • 「自閉症児」の育て方(9) 「声」のやりとり

    9 「自閉症児」の育て方・7・《「声」のやりとり》  生後1か月頃になると、乳児は「泣く」とき以外にも「声」を出すようになる。授乳後、満足して、気分がいいときなど、「アー、ウー」「オックン」など、いかにも「話をしている」様子に見受けられる。いわゆる「喃語」である。親は、この「喃語」に対して、《無条... 続きをみる

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  • 「自閉症児」の育て方(8) 「表情」のやりとり

    8 「自閉症児」の育て方・6・《「表情」のやりとり》  「笑顔」は表情の一つだが、それ以外にも「泣き顔」「怖い顔」「驚いた顔」「変な顔」「寂しそうな顔」「悲しそうな顔」「浮かない顔」等々、人間の表情は「千変万化」する。また「表情一つ変えない」というように、《無表情》という表情もある。人間(という動... 続きをみる

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  • 「自閉症児」の育て方(7) 「笑顔」のやりとり

    7 「自閉症児」の育て方・5・《「笑顔」のやりとり》  新生児は2カ月頃になると(あるいはそれ以前でも)、「一人で微笑んでいる」ことがある。親は、その「微笑み」を見逃してはならない。「笑った、笑った」などと言いながら、頬をなでたり、軽く突っついたり、息を吹きかけたりして、新生児自身が「今、笑ってい... 続きをみる

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  • 「自閉症児」の育て方(6) 「泣く」ということ

    6 「自閉症児」の育て方・4・《「泣く」ということ》  「泣く(ことができる)こと」は、人間にとって素晴らしいことである。  新生児にとっては「親を呼び寄せ」「自分の不快感」を取り除くことができる。乳幼児にとっては、自分の気持ちを表現して訴えることができる。「泣く」ことを繰り返すことによって、気持... 続きをみる

  • 「自閉症児」の育て方(5)泣き声の観察・3

    5 「自閉症児」の育て方・3・《泣き声の観察・3》  新生児・乳児は、「泣いて」親を呼ぶ。親は、その呼びかけに《無条件》に応じる。そのことによって、両者の「愛着関係」が形成される。これがコミュニケーションの「第一歩」であり、「人間の生活」の基礎になる。  生後3カ月以後になると、「泣き声」に変化が... 続きをみる

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  • 「自閉症児」の育て方(2)基本的な考え方

    2 基本的な考え方  定説によれば「自閉症児」(と呼ばれる子ども)は、〈1.対人相互反応の質的な障害2.意思伝達の著しい異常またはその発達の障害 3.活動と興味の範囲の著しい限局性〉を主な行動特徴としており、周囲からは〈・言葉の発達が遅い、人に対する関心・反応が乏しい、落ち着きがなく多動である、耳... 続きをみる

  • 「自閉症児」の育て方(1)自閉症児とは?

    《「自閉症児」の育て方》  【まえがき】  本来なら「自閉症の治し方」「自閉症の防ぎ方」といったタイトルにしたかったが、現代では「自閉症は治らない」ということが定説になっており、そのような定説に異議をとなえる気など毛頭ないので、というより、そのような定説など全く信じていないので、上記のタイトルを採... 続きをみる

  • 大衆演劇・劇場界隈・「御老公の湯・境店」

     東武アーバンバークライン川間駅から、「境町行き」の朝日自動車バスに乗っておよそ30分、役場前停留所で下車、「御老公の湯・境店」に向かう。ここは茨城県のはずれ(猿島郡境町)、利根川べりにある大温泉施設である。広い、広い。大浴場(浴槽は20)、岩盤浴場、足湯に加えて、貸し切り風呂(2)、大宴会場、中... 続きをみる

  • 大衆演劇・劇場界隈・安田温泉やすらぎ

     今日からの三連休を利用して、新潟県阿賀野市にある「名湯・安田温泉やすらぎ」に赴いた。今年6月にも訪れたが、以下はその時の感想である。〈7時48分東京発上越新幹線「Maxとき305号」に乗車、新潟の「安田温泉やすらぎ」に赴いた。終点の新潟駅で下車、駅前から10時30分発の送迎バスに揺られて45分後... 続きをみる

  • 昭和の歌謡曲・2・《淡谷のり子・「歌に恋して85年」》

     ユーチューブで「歌に恋して85年 淡谷のり子 生涯現役 女のブルース」というテレビ番組を観た。その中では、淡谷のり子が80歳を過ぎても「生涯現役」を貫いた舞台姿が紹介されていたが、収録曲は17曲、その内訳は以下の通りである。 ①60歳台:「別れのブルース」(昭和49年・67歳)、「雨のブルース」... 続きをみる

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  • 「サプール」と呼ばれる男たち

     午後10時から「地球イチバン・世界一服にお金をかける男たち」(NHK)という再放送番組を観た。コンゴ民主共和国の「サプール」に関するレポートである。詳細は以下のように紹介されている。〈あのポール・スミスも刺激を受け、コレクションに反映させたというコンゴの紳士たち。土煙舞う道端を、色鮮やかなスーツ... 続きをみる

  • 開いた口がふさがらない「八紘一宇」問答

     3月16日の参院予算委員会で、自民党の三原じゅん子議員が「八紘一宇」の思想を紹介したのに対して、麻生太郎副総理兼財務相は〈戦前の歌の中でも「往け八紘を宇となし」とかいろいろある。(略)こういった考え方をお持ちの方が三原先生みたいな世代におられるのに、ちょっと正直驚いたのが実感だ〉と応じたそうであ... 続きをみる

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  • 「君たちに憎しみをあげない」

      パリ同時テロで妻を失った仏人ジャーナリスト、アントワーヌ・レリス氏がフェイスブック上に綴った「君たちに憎しみをあげない」という文章を読んだ。この文章は19日現在20万回以上共有され、世界中に共感が広がっているという。私もその共感者の一人だが、まず何よりも、テロリストに向かって「君たち」と呼びか... 続きをみる

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  • 「高群逸枝全集 第一巻 母系制の研究」(理論社・1966年)通読・5

    第四章 本書の方法   【要点】  (略・私は文献中心の方法を通して系譜研究の四方法を採った) その各方法について主旨を次に述べる。 ⑴多祖の研究 我が国古代系譜の特徴とし一氏多祖の現象がある。同一の氏に属し、同一の氏名をもち、同一の居所、同一の職に従う氏人が、各自相異なる数祖を奉じて出自としてい... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・浪人生詩人

     高校の文芸部の中で、石賦助(ペンネーム)は見るからに温厚・柔和な風貌で、目立つ存在ではなかったが、彼の詩作は際立っていた。今、手元に残存する詩集の中に以下の作品がある。《真間川にて》たそがれの/真間川の/ふちの/野いちご//赤い/野いちごの/影はとかげ//とかげよ//真間川の/岸のコンクリートに... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・生徒会役員選挙

     高校三年になった新学期、私は文芸部の仲間を誘って生徒会役員の選挙に立候補した。「高校は大学の予備校ではない、本来の高校生活を楽しもうではないか。学校はただちに受験教育を止めるべきである。学業成績による序列にとらわれず、本当の学問を始めよう。文化、スポーツのサークル活動を活発にし、個性を伸ばそう」... 続きをみる

  • 私の戦後70年・山の男

     高校の文芸部には山岳部部員Mもいた。Mは両親と死別、叔父夫婦のもとから通学していた。早熟で「60年安保闘争」にも参加していた。先輩の詩作「《Revolution》革命と/訳されるが/日本の社会には/いまだ/訳されない/」に共鳴し、文芸部に入部したのであろう。Mはまた山を愛し、穂高、槍ヶ岳、谷川岳... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・浄瑠璃寺

     高校二年の春休み、知友六人で京都・奈良・大阪方面を訪れた。一足早い「修学旅行」を気取っていたが、リュックサックにテント持参、食糧はアメヤ横町で調達、早朝の鈍行列車で東京駅を出発、京都、木津を経て加茂駅下車、そこから徒歩で浄瑠璃寺に向かう、10時間以上かけての「山行」であった。私たちは近隣農家の許... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・ラグビー

     高校の体育の授業は「ラグビー」が必修であった。まず、楕円形のボールを相手の胸元にパスする練習、その時ボールが回転しないようにしなければならない。次は、横一列に並んで走りながらするラインパス、さらにフォワードとバックスに分かれてのフォーメーション、スクラムの組み方、タックルの仕方、ラインアウトのキ... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・文芸部

     高校では文芸部に所属した。今、私の手元には当時の文集、詩集が残存している。作品はいずれも青春特有のメランコリーに覆われている。表現は生硬、未熟で採るに足らな代物だが、「若気の至り」の記念として一編の詩を記したい。《かげろう》十二月になると/街角から/白いかげろうが/立ち/祈る/平和/もう誰も知ら... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・美術の授業

     高校の授業の中では「美術」が好きだった。石膏像のデッサンから始まり、水彩の静物画、風景画へと進み、デザイン、陶器皿の絵付けで終わった。一つの作品が完成すると、それを並べて、担当のT先生が批評する。先生は「事物をよく見なさい、頭の中で描いてはダメだ」と言いながら、生徒の作物を楽しそうに鑑賞していた... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・高校

     昭和35年4月、私は東京郊外の公立高校に進学した。広い敷地には、木造校舎、食堂、図書館、体育館、プール等が立ち並び、校門から校舎玄関までは銀杏並木が続いていた。校則は緩く、下駄(朴歯)履きが許されるなど「自由」な雰囲気であったが、授業の内容は大学受験「一辺倒」で、学期末には成績優秀者の氏名が掲示... 続きをみる

  • 私の戦後70年・戦争の話

     中学校のN先生は保健体育を担当したが、生徒にせがまれると時折り「戦争の話」をしてくれた。先生は体操競技を専攻し、とりわけ鉄棒の演技が得意であった。「日頃から運動で体を鍛えていたので、私は戦地から生還できた。極寒の埠頭に重装備のまま降りたとき、表面の氷で軍靴が滑り海中に転落する者が続出した。私は右... 続きをみる

  • 脱テレビ宣言・検証・掘り出し番組《ドラマ「禁断の実は満月に輝く」(NHK)》

    「禁断の実は満月に輝く」(NHK)というテレビドラマを観た。そのあらすじは以下の通りである。(ネットサイト「まんたんウェブ」より引用)  ◆「ダウン症のイケメン」を自負する主人公・光司(略)はある日、自分の障害が原因で大好きな兄の結婚が中止になったと知り、ショックを受ける。そこで障害を治そうと、統... 続きをみる

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  • 脱テレビ宣言・検証・掘り出し番組《「地球イチバン・世界一服にお金をかける男たち」(NHK)》

     午後10時から「地球イチバン・世界一服にお金をかける男たち」(NHK)という再放送番組を観た。コンゴ民主共和国の「サプールっほりだしば」に関するレポートである。詳細は以下のように紹介されている。〈あのポール・スミスも刺激を受け、コレクションに反映させたというコンゴの紳士たち。土煙舞う道端を、色鮮... 続きをみる

  • 「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・28

    《第6章 自閉症の時間世界》 《要約》 【時の遠近感覚の謎】 ・自閉症者は、私たちと同じような時の遠近感覚をもっているのだろうか。 ・自閉症者は、私たちとは異なる記憶世界を生きているようである。ということは、過去・現在・未来を対照しながらつくり上げていく時間認識の世界も私たちとは異なるものとなって... 続きをみる

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  • 「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・27

    【質問しない子ども】 《要約》 ・健常者と自閉症者には、記憶方法に違いが見られるが、その結果、脳に貯えられる知識の世界はかなり違ったものとなるに違いない。 ・健常者は、互いに似たような対象に注目し、似たような方法で記憶していくから、知的な財産も互いに照合しやすいものとなる。自閉症者の場合は、私たち... 続きをみる

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  • 「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・26

    【知能構造のアンバランス】 《要約》 ・自閉症児のWISCの結果から第一に言えることは、空間的な認知に係わる課題の成績が良いことである。動作性検査の中の「積木模様」「組み合わせ問題」「迷路問題」は、空間的な認知や構成力を要する課題だが、標準得点以上の結果を出している。このことは、自閉症児が空間的な... 続きをみる

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  • 「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・25

    【文字言語の世界】 《要約》 ・(音声言語を獲得するためには)音と状況の同時進行的な世界を見守り、関連づけないと理解されない。これは非常にむずかしいことであり、健常な子どもでも、初期の言語発達には時間がかかるのである。自閉症児の注意の状態は、言語獲得には特に不利な面があると思われる。視線が一点にと... 続きをみる

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  • 「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・24

    《第5章 自閉症の記憶世界》 《要約》 【視線の謎】 ・うつろな、あるいは遠くを見ているような自閉症者の視線は、いったい何を写し取っているいるのだろう。そして、何を記憶世界に送り込んでいるのだろうか。 ・本章では、自閉症者に観察される記憶の世界を訪ねてみることにする。 【時間的世界と空間的世界】 ... 続きをみる

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  • 「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・23

    《なぜオウム返しをするのか》 《要約》 ・自閉症児が「オウム返し」をするわけを知るには、言語の問題の中だけで考えず、行動の問題に戻って考えてみる必要がある。 ・自閉症児には行動プログラムを立てる力があまり育っていない。ゴールを自分で定め、道筋をつくっていない。彼らは、意思決定者としての自分に気づい... 続きをみる

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  • 「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・22

    【なぜ遊べないのか】 《要約》 ・自閉症児は、言葉をその意味と結びつけるうえでもトラブルを起こしやすい。このことは、自閉症児がうまく遊べないことと深く係わっている ・砂場遊びでは、砂をご飯に「見立てる」、ごっこ遊びでは、「お父さん」「お母さん」の意味。役割を「演じる」ことができなければ、遊びは成立... 続きをみる

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  • 「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・21

    【出来事の基本構造】 《要約》 ・出来事を表すのに必要な動詞や助詞の役割をうまく説明している文法理論がある。(フィルモアが提案した「格文法理論」)この理論にもとづいて、認知心理学者リンゼイとノーマンは出来事の構造を図式的に表現している。(ノーマン「情報処理心理学入門Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」サイエンス社) ◆「... 続きをみる

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  • 「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1939年)再読・20

    【言語の階層構造】 《要約》 ・絵カードを使っておこなった研究の結果から言えることは、知能障害児も健常幼児も、大ざっぱなレベルでは0、文の表す内容を正しくつかんでいるらしいことである。これに対して自閉症児は名詞、動詞、助詞など、多くの単語を使うことはできても、それらが組み合わされてつくられる文全体... 続きをみる

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  • 「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・19

    【物から出来事へ】 《要約》 ・周囲の世界ががらりと変わるときがある。それは、目の前で何かが起きたときである。「ツミキ・オチチャッタ」、二歳児の口からこんな言葉が発せられることがよくある。 ・積木はまだ視界の中にあるけれども、「机の上の積木」はもうない。これは情報的には大きな意味をもつ事実である。... 続きをみる

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  • 「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・18

    【指さしから言葉へ】 《要約》 ・人の子どもは一歳から二歳までの間、いったい何をしているのだろう。その間に、もしくはそれに先立つ時期から、子どもは言葉以外のコミュニケーション手段をさかんに使うようになっている。その代表というものが指さしである。 ・他の指を心もち曲げ、ひとさし指だけを立てておこなわ... 続きをみる

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