「わたし」は、かくて臍からではなく、死もしくは死の意識から自己の生活を再出発させようとする。 〈その間にしたことといへば、これまでし来った些かな習慣をさへ削除することであった。まづ例の手帖(注・・ユラとの愛について考えるための手帖)など焚き捨てること、つまらぬ歌や句をひねらぬこと、草木のすがた... 続きをみる
梨野礫・著作集の新着ブログ記事
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「わたし」は、ユラ、ミサたちとの生活を「魚のような漠然たる生存」と名づける。同時にまた、それは「わたし」の生活に絶望する生活の表現でもある。そして「わたし」はというより石川淳はそうした「魚のような漠然たる生存」に一つの決着をつけようとする。すなわち書き手としての「わたし」は、それを書く(表現する)... 続きをみる
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さてそれでは石川淳にとって「佳人」が意味するもう一つの意味、すなわち新しい「生活」への出発とはどのようなものであったのか。厳密にいえば、それは新しい「生活」への出発という形を、生活的な意味においてとるものではない。むしろ認識者から表現者へ飛躍するときの一つの契機、そういうものとして「わたし」の醜... 続きをみる
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〈ここでわたしのペンはちょっと停止する。もしわたしがこの叙述を小説に掏りかえようとする野心をもってゐたとしたらば、別にできない相談ではあるまい。〉(前出・51頁) これは「佳人」のおわりの部分の書き出しであるが、石川淳は、斜面をずり落ちてゐった「わたし」について書いていたペンを停止させて、書き... 続きをみる
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・・・春とはいへ、夜更の風酔ざめの襟に沁み、はっと夢破れて起きあがった曽呂利が大きな嚏一つ、ほい、まだ地上に生きてゐたか。・・・(『曽呂利噺』) 人は石川淳について語るとき、何故石川淳的にならざるを得ないのであろうか。いいかえれば、何故石川淳の言葉で石川淳を語らざるを得ないのであろうか。 ... 続きをみる
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さてそれでは、織田がめざした方法上の転換とはそのようなものであったのだろうか。 織田は「郷愁」において、自己の小説方法論をあからさまに述べている。そこにおいては「世相」と「人間」とが対立的にとらえられ、彼の結論は、人間の郷愁への回帰という形をとる。 〈再び階段を登って行ったとき、新吉は人間へ... 続きをみる
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織田は、戦後間もなく発表した「表彰」(『文芸春秋』昭和20年12月号)という作品で次のように書いている。 〈伊三郎が消防部の副班長に任命された頃、お島は警防団から表彰された。表彰式の日お島は名前を呼ばれると、居並ぶ団員の一人一人にペコペコ頭を下げながら団長の前へ出て行ったが、その時列の中で赫くな... 続きをみる
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織田は、この作品でも、登場人物の内面に立ち入ることをことごとく避け、かわりに船、海、あらし、動物、その他生活用品等で彼らの「生活」を表現している。だがそれは、もはや人間関係そのものを媒介させうる社会的な「物」としてのそれではなく、自然の一部としての人間に対してきわめて並列的な存在としての物、いい... 続きをみる
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〈ところがある日、賀来子は電球を手にしてしきりに溜息をついてゐる基作をあやしんで、その電球をどうするつもりですかと訊いた。まさか玩具だとも言へず、古い電球を新しい電球にする法を思案してるねんと答へると、そんなことできるんですか。出来ィでかいな。すると賀来子はさうですかと暫く考へこんで、やがて、女... 続きをみる
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さてすでに述べたように、織田作之助の方法意識の中には、ストーリー・テリングに対立するものとしての近代的リアリズムへの志向がふくまれていた。私はそのあらわれを「夫婦善哉」「素顔」「天衣無縫」といった作品にみたわけだが、その中でも「夫婦善哉」「素顔」と「天衣無縫」との間には異質なものがあって互いに区... 続きをみる
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資本主義社会が発展していく中で、かつての封建中流階級は「庶民」として生き抜くために、他ならぬ「庶民」を徹底的にだましつづける他はなかった。いわゆる日本的なブルジョア合理主義とは、伝統的な仏教・儒教道徳としての「勧善懲悪」思想の裏返しとしてあるのであり、それゆえ両者における価値体系は本質的には何ら... 続きをみる
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織田作之助は、いわゆる生活というものを平面的な流れとしてとらえる。そしてその流れは、多かれ少なかれ「運命」とよばれる一つの必然性によって支配されている、という認識がある。織田は「雪の夜」において、坂田というひとりの男が、瞳という娘に惚れるということをきっかけに、どこまでも果てしなく、とりかえしの... 続きをみる
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周知のように、井原西鶴は江戸時代の封建社会体制をなし崩し的に崩壊せしめる、変革の可能性を裡に秘めた新興階級(町人)、つまり商業資本家の代表者として登場した。従って、井原西鶴の小説は、新興階級の封建社会に対する自己主張であり、中世的な美意識や、儒教道徳を拠りどころとする当時の知識人に対する反逆であ... 続きをみる
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織田作之助におけるストーリー・テリングという方法は、「ストーリーの奇抜な変化に凝ったり」するようなものではなかった。 〈その頃、もう人に感付かれた筈だが、矢張り誰にも知られたくない一つの秘密、脱腸がそれと分かる位醜くたれ下がってゐることに片輪者のやうな負け目を感じ、これがあるがために自分の一生... 続きをみる
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織田作之助の「文学」における基本的方法をひとくちでいえば、それはストーリー・テリングという方法である。 〈おれの小説は一気に読める、と彼は豪語していた。いかにも彼の文体はキビキビして、鈍味がなく、素早い頭脳回転に渋滞のあとがなかった。しかし彼の頭脳は素早く回転すればするほど、飛鳥の早さで別の対... 続きをみる
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・・・夜を経なくっちゃ、太陽が登らないのだ。・・・(「夜の構図」) 織田作之助、太宰治、坂口安吾、石川淳、この順は彼らの世を去る順であった。そして中島誠は、この順を彼らの文学的資質の順としてみている。 〈必ずしも、淳、安吾、治、作之助の四人は同質の作家ではないだろう。彼らは、大いに異なる資質... 続きをみる
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さて、もう一度戦後の文学現象をながめてみたい。 1 志賀直哉・永井荷風・正宗白鳥・谷崎潤一郎らの大家の復活 2 上林暁・尾崎一雄・外村繁らによる私小説の復活 3 舟橋聖一・田村泰次郎・石坂洋次郎らの風俗小説 4 川端康成・田宮虎彦・井上靖らの中堅作家 5 織田作之助・太宰治・坂口安吾... 続きをみる
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またすぐれた文学を次のように規定している。 〈すぐれた文学とは、われわれを感動させその感動を経験したあとでは、われわれが自分を何か変革されたものとして感ぜずにはおられないような文学作品だといってよい。感動しうるためには、その作品はわれわれにとって再経験しうるものでなければならない。(明快さの必要... 続きをみる
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さて、ここで注意すべきは、科学も芸術もそのような対立をいわゆる「実践・・認識・・再実践・・再認識」という形でおこなうが、そのとき科学にとっての実践とは正に認識の実用化であり、芸術にとっての実践とはそのような対立の表現であり、その表現はおおむね非実用的なものであるということではあるまいか。なぜなら... 続きをみる
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ところで芸術がそのような人間の生活活動の意識的生産の中から生まれてきたということははたして自明のことであろうか。 思うに、人間がその生活において意識的生産と物質的生産を《同時に》行うとは、いいかえれば人間の生活は意識的生産と物質的生産との対立として存在するということではあるまいか。そしてその対... 続きをみる
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ここでいう自己疎外とは、人間が絵を描こうと思って描きはじめるや否や、その描かれた絵が独立して、逆に人間を支配しはじめるというそうした人間と絵との関係、もしくは人間の意識活動の内的構造のことである。だがこうした自己疎外という現象は、単に人間の意識活動の中にあるばかりでなく、というよりむしろ人間の生... 続きをみる
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人間を人間たらしめているものは、その存在を存在たらしめている生産活動・生活活動に他ならないが、マルクスはそれを動物の生産活動と区別して「自由な」生産活動であると規定する。すなわち、動物が直接的な肉体的欲望に支配されて生産するのに対して、人間は肉体的欲望から自由に生産し、しかも肉体的欲望から自由な... 続きをみる
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【第五章 内閣】 ◎草案(修正該当部分) 第七十二条3 内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する。 ◎修正案 第七十二条3を削除する。 《解説》 ・修正案においては、国防軍は存在しないので、この規定は不要である。 【第九章 緊急事態】 ◎草案 (緊急事態の宣言) 第九十八条 内閣総理大臣... 続きをみる
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【第四章 国会】 ◎草案(修正該当部分) 第四十二条 国会は、衆議院及び参議院の両議院で構成する。 第四十九条 両議院の議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額の歳費を受ける。 ◎修正案 第四十二条 国会は、衆議院及び参議院の両議院で構成する。 2 参議院は非政党議員で構成し、衆議院を抑制... 続きをみる
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【第三章 国民の権利及び義務】 ◎草案・1(修正該当部分) 第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民はこれを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び責務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。 第十三条 全て国民... 続きをみる
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◎草案 【第二章 安全保障】 (平和主義) 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。 2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。 (国防軍) 第九条の二 我が... 続きをみる
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《日本国憲法改正草案・自由民主党》修正案・《2》 【第一章 天皇】 ◎草案(修正該当部分) (天皇) 第一条 天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。 (国旗及び国家) 第三条 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。 2 ... 続きをみる
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【前文】 ◎草案 日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴いただく国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外... 続きをみる
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芸術とは何かという問題はだがしかし、決して主観的な解釈ですませてはならない。つまりそれは芸術をいかに認識するかという問題であり、その限りにおいて認識は正に《科学的》でなければならない。なぜというのに、芸術という言葉が指す対象が具体的に私たちの前に存在しているわけではないのだから。具体的に存在して... 続きをみる
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・・「歌わぬ詩人ということはありえない」(ヘーゲル)・・ 私は、戦後文学を規定しようとするとき、戦後の文学現象に登場した個々の文学者たちが、「戦前」から「戦後」へという歴史的転換を一つの「状況」としてどのように認識したかということと、個々の文学者たちが自己のありかたを表現するものとして文学・芸術... 続きをみる
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それでは「民主主義文学」についてはどうか。 まず、それがアメリカ占領軍を解放軍と見あやまった日本共産党の文化政策の一環として存在していることはいうまでもない。そして彼らの文学運動理論が、その「政治の優位性」理論によって、かつての文学報国会のそれと表裏一体のものであることは、平野謙や吉本隆明の言... 続きをみる
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私の『近代文学』派に対する評価を要約すると次のようになる。 彼らは戦後、日本の社会に残存している前近代性に注目し、それを近代化しようとした。それは多分に彼らの戦争体験にもとづいた発想である。彼らの戦争体験とは、厳密には戦時体験もしくは転向体験であり、彼らの思想の拠りどころとなる被害者意識には、... 続きをみる
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だが、『近代文学』派が主張した文学論上における前近代性の克服、それはすでにみたように私小説リアリズムの否定ということであった。そしてそのことはいかなる文学論(芸術論)にもとづいて主張されたのであろうか。つまり『近代文学』派は、いかなる文学的視点から私小説リアリズムを否定しようとしたのだろうか。 ... 続きをみる
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マルクスは、インテリゲンチャが何故にプチ・ブルジョアジーであり労働者と敵対するものであるかを、ここにおいて明確に語っている。ここで重要なことは、インテリゲンチャの主観にかかわらず、まず彼らの「存在」こそが近代的な生産関係によって決定的に基礎づけられ、同時にその「存在」は、労働者がその本来的なあり... 続きをみる
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それでは両者の欠落させていたものとは何か。それをひとくちでいえば、「戦後状況」の正当な認識と、文学上の方法論という二つの問題である。それは同時に、彼らが共に小市民的インテリゲンチャの意識で、いわゆる一般大衆の意識をとらえようとしたことを意味する。佐々木基一の言葉を思い出してみよう。 〈「戦後文... 続きをみる
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さて、私はこれまでひととおり、戦後文学がどのように規定されているかということについてみてきたわけだが、はたしてそういう規定は適当であるか否か、という問題に私なりの検討を加えたいと思う。 私には、いわゆる様々な戦後文学の論争上の混乱は、正にそれを規定する段階での混乱に起因すると思われる。戦後文学... 続きをみる
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ところで、このような「戦後文学」観に否定的な考えもある。 〈こういうことはないだろうか。「戦後文学」あるいは「戦後の文学」といった用語・・両者の間には用法によってそれ相応のひらきが在るわけだが・・には敗戦という契機が当然そこに含まれているはずである。ある意味からは戦後の文学はすべてこれ負けいく... 続きをみる
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〈「戦後文学」或いは「近代主義」といわれるこの一派に属する人々は、すべdて小市民的インテリゲンチャであった。(勤労者出身の椎名麟三もその観念においてはインテリゲンチャである。)また、多かれ少なかれ戦争の被害者であった。戦争に積極的に協力した者は一人もいない。しかしまた、戦争に対して行動をもって積極... 続きをみる
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佐々木基一はそれについて次のように書いている。 〈文学史の任務は、ある文学現象がどのような社会的背景をもって生まれてきたかを解明すると同時に、文学に描かれた世界は社会と文学の発展の見地からどのような意味をもつか、またこの発展の特定の段階を文学者は如何に描きだしているかを解明することである。〉(... 続きをみる
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瀬沼茂樹は次のように述べている。 〈戦後文学史とは何をいうのか。普通に、昭和20年以後の文学を漠然と「戦後」の文学と呼び、その歴史的叙述について、便宜のために「戦後文学史」というのである。〉(「戦後文学史論」(瀬沼茂樹)・『国文学』・学燈社・第10巻13号・8頁) 〈現代文学史は近代文学史の... 続きをみる
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1 文学通史的にみれば「戦後の文学」はそれ以前の文学に対するものとして明確に存在する。そしてそれが新しい意味と内容をもつこともまた自明である。ただ問題は、いわゆる「戦後派文学」が内容的に質的に「戦後の文学」を代表しうるものであり、それに新しい意味を与えているか否かということだ。 2 「戦後派文... 続きをみる
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・・・戦後文学は、わたし流のことば遣いで、ひとくちに云ってしまえば、転向者または戦争傍観者の文学である。・・・(「戦後文学は何処へ行ったか」(吉本隆明) 戦後文学とは何か、という問いかけに答えようとするとき、それによって明らかになることはいったい何なのであろうか。思うに、戦後文学とは何かと... 続きをみる
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さてそれでは、いわゆる大衆の社会意識、生活意識を原点とするとはどういうことなのであろうか。もとより大衆もしくは大衆意識などというものがア・プリオリに存在するわけがない。それは私たちひとりひとりが自己の生活を見つめ、そのことによってひとつの意識を思想まで高めるという、きわめて素朴でそれゆえに基本的... 続きをみる
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これまで述べてきたことを要約すれば次のようになるであろう。 戦前における日本人の意識は、《醇風美俗》を基礎にして、その上に《国体観念》を構築し、またはさせられていたが、それが敗戦によって天皇制権力機構が崩壊するとともに、《国体観念》は人々の意識から忘れ去られ消滅した。しかし、資本主義的経済機構... 続きをみる
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それでは。《醇風美俗》の方はどうであったか。 〈いうまでもなく《醇風美俗》の故郷は農村にあった。戦後の農地改革によっても旧地主あるいは新興ボスによる村秩序の支配がほとんど打ち破られなかったところに、醇風美俗の実質的な社会的・経済的基盤があった。(略)さらに注意すべきことは、それは《春風美俗》の... 続きをみる
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村上一郎はそのことを裏づけるかのように次のように書いている。 〈ラジオが詔勅の声を流したとき、泣くものが多かった。が、泣いたのは、実は敗けてもよいと思ったものであった。ぼくらは泣かなかった。天皇そのもののことは別に考えていなかった。天皇には政治はないように思っていた。天皇が、切腹しようと生き残ろ... 続きをみる
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一方、アメリカ占領軍の戦後支配の目的は、すでにみたように、「二つの世界」の出現という世界的な経済的矛盾に対処するために日本を極東における反共の砦として利用することにあった。そしてその基本的な方法をひとくちでいえば、要するに戦前の日本における社会構成(支配・被支配の関係)をできるだけ温存しながら、... 続きをみる
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ここではそうした意識の違いが、戦前派知識人と一般大衆の違いとして述べられている。だが「8月15日」意識の違いは、単にそうしたいい方では説明でき得るものではなく、むしろその内容において千差万別であったのだ。なぜというのに、「8月15日」意識とは、今述べたような、それ以前の戦争評価の意識、さらには千... 続きをみる
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また日高は、戦前社会における《国体観念》と《醇風美俗》の関係について次のように述べている。 〈人間関係は身分的秩序の枠のなかでとらえられ、恩恵と奉仕、分の自覚、和と忍従が主要な徳目となる。しかもそれらの徳目をささえる社会的単位は、家秩、同族団秩序、部落(村)秩序など順次拡大しながら、しかもそれ... 続きをみる
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五味川純平は、それを裏打ちするものとして、マルサス主義と「大アジア主義」をあげている。 〈日本の国土は狭く資源は貧しい。しかも人口は多い。このまま進んだら日本民族はほろんでしまう。滅亡がいやなら外に向かって進出するほかはない。(略)満州を中国から取りあげて日本将来の発展に備えることの、一体どこ... 続きをみる
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【ぼくはこんど戦争があったら、やはり戦争にゆくであろう。そしてきれいに死のうとするであろう。》(「戦中派の条理と不条理」・村上一郎)】 私は前の章において、「戦前」から「戦後」への歴史的転換を、政治・経済的」な視点からながめた。いったい1945年8月15日を境として、日本の社会はどのような転換を... 続きをみる
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〈第一。生産過程以外からの収奪。最大限利潤(注・資本主義の基本的経済法則)は、まず「その国の住民の大多数」を搾取することである。これは直接的な生産過程における労働者にたいする搾取以外に、農民、小生産者、商人および一部の資本家・・アメリカ独占資本と直接に関係がなく、国家機構を自己の利益に従属させるこ... 続きをみる
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さて、8月15日以後、日本の戦後は出発する。それはひとくちにいってアメリカと民主主義への出発であった。そして前者は、それがアジアにおける植民地支配競争の勝利者としてあった以上、日本資本主義にとっていわば必然的な帰結ではあったが、後者はいわばひとつの偶然であったといっても過言ではない。 〈第二次... 続きをみる
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次にその戦後過程を見てみたいと思う。 〈戦争と戦争経済とは、日本資本主義に内在する諸矛盾を発展させ、敗戦によって日本資本主義の国家制度、社会制度が打撃をうけたたときに、もはや何らかの改革なしにすませることができない程度に達していた。戦後の虚脱といわれた状態の底流にあったのは実のそういう性格の問... 続きをみる
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〈日本資本主義の運動は、けっきょく、資本主義の世界的体制の生成、発展、衰退、死滅の過程に組みこまれてゆかざるをえない。〉(『日本資本主義講座』・Ⅳ・前出・3頁) 〈この場合(注・世界における戦後過程)直接的に世界資本主義体制の危機をいっそう深めることになった事情として注目されるのは、世界が対立... 続きをみる
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井上清は、日本の敗北について次のように規定している。 〈その第一は日本帝国主義は中国およびそのほかのアジアの反帝国民族独立勢力に敗北したということである。そしてそれはたんに日本帝国主義の敗北だけではなく、東アジアにおけるすべての帝国主義の敗北のはじまりとなった。(略) 太平洋戦争の第二の結... 続きをみる
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ところで、一般に私たちは、「戦前」「戦中」「戦後」などという言葉を使うが、そのときの「戦」とはいったいどの戦争を指すのであろうか。 〈わたしたちが日ごろ「戦争」というとき、それはほとんど太平洋戦争をさしており、太平洋戦争は対米英戦争にほかならないとされている。そのような意味で、日本人の戦争の意... 続きをみる
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日本の天皇制は、古典的絶対主義とはおのずから性質を異にしていた。すでに世界の資本主義が帝国主義段階に移行しつつある中で日本の資本主義が自立するためには、帝国主義と絶対主義が奇妙な形で混合せざるを得なかった。 〈「日本において支配している層は帝国主義者である。がしかし特殊な帝国主義者である。彼らは... 続きをみる
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いうまでもなく、日本の近代は明治維新にはじまる。そしてそれは同時に絶対主義的天皇制の出発点でもあった。 〈古典的な絶対主義は、封建社会の胎内に資本主義が成長してきて、封建性は不安定になり地主階級はよろめいているが、しかもブルジョアジーもまだ地主階級を圧倒することができずにいるという条件のもとに... 続きをみる
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私たちは1945年8月15日以前を、ひとくちに「戦前」とよぶことになれている。だが「戦前」という言葉の中には、様々な生活意識から発した、生活史、個人史的なエレメントが多分に含まれており、それをただ論理的に解明しようとすることは不可能である。だがともかくも、「戦前」という言葉が指し示す対象を、具体... 続きをみる
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月 ほっかりと 月がでた 丘の上をのっそりのっそり だれだらう、あるいてゐるぞ (『雲』より) 山村暮鳥といえば『雲』というように、我々はおのがじし身勝手な親近感を胸に秘めて、山村暮鳥の研究に着手したわけであるが、まず第一印象として、誰もが感じたことは、彼のあののんびりとした、ある程度ユーモアの... 続きをみる
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いったい日本の社会は、1945年8月15日を一つの軸として、どのような歴史的転換をみたのであろうか。それを境として変わったものは何であり、変わらなかったものは何なのか。私にとっての戦後の状況とは、そういった問題に答えようとすることによって、はじめて明らかになるのだと思われる。 〈河上肇は「あなう... 続きをみる
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この世の崩壊を目撃し、なおかつ不幸にも生きのびた者の、とるべき道は三つある。 その一つは、崩壊したそれゆえに再建不能なそれを土台とした、いかにももっともらしく、健康な生命力の象徴ででもあるかのようないつわりの復興を、徹底的に憎悪をこめて破壊せんとすること。「いっさいはまやかしなのだ」とどなりな... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・40
3 国語教育と言語理論 【要約】 中学校、高等学校で文法を教えるという、教育の現場からいくつかの問題が提出されている。その一つ二つについて考えてみる。 その一つは、文法の教育ということをどう理解しどう実践するかという問題である。文法が法則的な学問であり、文法を習うことは公式について勉強すること... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・39
2 日本語改革の問題 【要約】 これまで、漢字の制限、かなづかいの改正、むずかしい語をやさしい語に変えること、標準語の確立、敬語の整理などについて多くの論議が行われ、改革が実行されてきた。 軽率な改革が全体の混乱を招かないように慎重に考えなければならない。 かなづかいは音声のありかたを忠実に... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・38
第五章 言語と社会 1 言語の社会性 【要約】 言語についての基本的な考え方のちがいは、言語の社会性についての理解に大きな影響をもたらす。頭の中に抽象的にとらえられた表現上の社会的な約束を「言語」あるいは「言語の材料」と考えるなら、言語はどこまでも思想をつたえる道具として理解されることになる。こ... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・37
4 文章に見られる特殊な表現構造 字数を制限された場合は、特殊な文章が使われる。 ● 六ヒユケヌヘンマツタロウ ● 売邸渋谷南平台環良地一一二付建坪二六坪七五瓦水完交通便手入不要即安価面談仲介断48二0六0木村 この電報の「ヘン」は返事、案内広告の「瓦」はガス、「水」は水道、「即」は即金と読者... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・36
3 文章といわれているものの本質 【要約】 (a) ああ。(感嘆) (b) 火事。(呼びかけ) (c)起立。(命令) これらは一語文である。これらのほかに、一語文でありながら、それ自体がぬきさしならぬふさわしい表現と考えられているものがある。それは文章の《題名》である。 ● 土(長塚節) 家... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・35
2 文章における作者の立場の移行 文章の理論的研究は、これまで主として修辞学の中で行われてきたようである。文章に中に文の法則性を超えた独自の法則性をさぐって体系的な文章論をうちたてるという試みはほとんど行われていない。文法学と修辞学が、文章について全くちがった何の関係もない定義を与えていると云う... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・34
第四章 日本語の文法構造・・その三、語と文と文章の関係 1 語と句と文との関係 【要約】 ● おーい。起立。暖かい。 などは、一語で話し手の一つの思想を表現したものとして《一語文》とよばれている。主語と述語をそなえているというのは、ある種の文の特徴であって、一つのまとまった思想が常にこのような... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・33
3 感動詞・応答詞・接続詞 【要約】 (a) (おい)、君。 (b) (ああ)、うまかった。 (c) (ちぇっ)、ばかにしている。 独立したかたちで使われる、話し手の呼びかけや感情を表現する語を、感動詞あるいは感嘆詞と名づける。この感動詞によって直接表現されている呼びかけや感情にはそれをひきおこ... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・32
c 助動詞のいろいろ 【要約】 ○「ある」「だ」 肯定判断、断定の表現に使われる。 ○「ない」「ぬ」 否定判断、打ち消しの表現に使われる。形容詞の「ない」から移行してきた「ない」と、「ぬ」の二つの系列がある。「ない」は形容詞と同じように活用し、「ぬ」は独自の活用をする。 この種の表現は、話し... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・31
【要約】 彫刻家ロダンは、彫刻や絵画が運動を表現する場合について、次のように語っている。〈「動勢とは一つの姿態から他の姿態への推移である」この単純な言葉が、神秘の鍵なのです。・・彼は一つのポーズから他のポーズへの推移を形に写します。最初のものが如何に知らず識らずのうちに第二のものに移って行くかを... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・30
【要約】 現在過去未来が相対的な関係だということを確認した上で、次に運動の相対性という問題を考えてみる。 ● 鳥が(飛んでいく) この場合は対象である鳥が動いており、話し手は静止している。 ● 森や林や田や畑 あとへあとへと(飛んでいく)。 この場合は対象は静止しているのに、話し手が汽車に乗... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・29
b 時の表現と現実の時間とのくいちがいの問題 【要約】 言語において過去や未来のありかたをとりあげる場合、日本語では助動詞を使う。ところが、現在形で表現する場合がある。 ● 宇宙は永遠に存在(する)。 ● 明朝行き(ます)。 現実から見て動詞の原形を「現在形」とよぶこと自体当を得たものではない... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・28
2 助動詞の役割 a 助動詞の認識構造 【要約】 わたしたちは、生活の必要から、直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり、過去の世界や未来の世界について考えたりしている。観念的に二重化し、あるいは二重化した世界からさらに二重化するといった入子型の世界の中を、わたしたちは行ったり帰った... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・27
f 終助詞について 【要約】 文の終わり、助動詞あるいはそれに相当する部分の後に使われる語である。その特徴は、感動、疑問、欲求などを純粋なかたちで表現することで、個人的な意識の自然なあらわればかりでなく、時には聞き手に対して強い欲求を示すような場合がある。 ● 今日は元日(か)。 立派だ(なあ)... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・26
e 接続助詞について 助詞がつながりの意識の表現であることから、対象のつながりを表現する助詞が二つの文をつなぐかたちをとって使われるようにもなる。これが接続助詞である。「から」は出発点・起点の意識を表現する格助詞だが、これが二つの事件の原因結果について使われるようになり、 ● それだ(から)私が... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・25
d 係助詞について 【要約】 直接対象から与えられた認識とは別に、話し手の持っている意識がかたちの上で打ち出してくる助詞を、係助詞と呼ぶ。昔から、係り結びといわれ《「ぞ・る」「こそ・れ」「思ひきや・とは」「は・り」「やら・む」これぞ五つの結びなりける》という歌でこれを記憶してきたが、口語では文の... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・24
C 副助詞について 【要約】 助詞による表現のうしろには、客観的なつながりと、そのとらえかたがかくれている。そのつながりも、とらえかたも、客観的な時間・空間・質・量と無関係ではない。副詞は、客観的な事物のありかたを抽象的にとりあげて表現するが、助詞の中にも副詞と似たとりあげかたをし、格助詞と組み... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・23
b 格助詞とその相互の関係 【要約】 ○「が」と「は」の関係 (a) 鳥(が)空を飛んでいる。→《現象的なつながり》 (b) 鳥(は)空を飛ぶ。→《必然的な本質的な関係》 (c) お茶(が)こぼれる。→《偶然的なつながり》 (d) お茶(は)机の上へおいてください。→《偶然が継続→固定的なつながり... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・22
第三章 日本語の文法構造・・その二、主体的表現にはどのような語が使われているか 1 助詞のいろいろ a 助詞の性格 【要約】 文の中の語と語とはつながりをもつものとして扱われる。このつながりのうしろには、語としてとらえられた対象のそれぞれの面の客観的なつながりがかくれている。 ● 人死す。 「... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・21
b いわゆる連体詞について 【要約】 いわゆる連体詞には以下のようなものがある。 (a) (ある)日の午後のことだ。 (b) あの人は(いわゆる)影べんけいだ。 (c) (さる)ところによい店があるという。 (d) (とんだ)ところへ北村大膳。 *動詞の連体形をそのまま使う場合 (e) きた... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・20
5 副詞そのほかのいわゆる修飾語 a 副詞の性格について 【要約】 ● (とても美しい)花だ。 「花」の具体的なありかたを示すために他の語をつけ加えることを、修飾するという。これはみかけの説明だから、これを絶対化して、これだけで解釈するとまちがった理解におちこむ危険がある。すすんで認識構造を分析... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・19
b 新しい分類の中に止揚すること 【要約】 「静かだ」「綺麗だ」を一語と見て形容動詞とよぶのはまちがいである。これは二語と見るべきである。静止し固定した変わらない属性において対象をとらえるときの語は、形容詞だけではない。漢語そのほかたくさんある。そのたくさんのうちで、特別に「く」「い」「けれ」と... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・18
4 形容動詞とよばれるものの正体 a 歴史的な検討の必要 【要約】 国語の教科書や参考書では、その大部分が「形容動詞」といわれるものをとりあげて説明している。 《活用表》 ● 静かだ(基本の形) 静か(語幹) だろ(未然形) だっ・で・に(連用形) だ(終止形) な(連体形) なら(仮定形) ○... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・17
d 複合動詞の問題・・・正しい意味での助動詞の使用 【要約】 動詞は、単独で使われるだけでなく、複合して使われることがある。動詞の下につけ加えて使うかたちの動詞を、これまでの教科書では助動詞とよばれる品詞の中に一括していた。(その中の性格のちがう語を区別する必要がある) 時枝誠記氏は、使役の助... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・16
c 属性表現の二つの形式・・動詞と形容詞の関係 【要約】 形容詞の活用形は、 ● 正しい(基本の形) 正し(語幹) く・あろ(未然形) く(連用形) い(終止形) い(連体形) けれ(仮定形) ○(命令形) のようなかたちをとり、動詞のように五十音図と関係を持つもにではない。 ● 花が咲く。(... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・15
b 形式動詞あるいは抽象動詞 【要約】 対象となっている属性について具体的に知らないとき、簡単にしか表現できなかったり簡単な表現で足りる場合には、形式動詞あるいは抽象動詞とよばれる種類の動詞が使われる。 ● どこに(ある)のか。どう(する)つもりか。どうして(いる)か。どう(なる)だろう。こう(... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・14
3 動詞と形容詞、その交互関係 a 活用ということについて 【要約】 動詞といわれる種類の語は、使い方によって語尾のはたちが変化する。これを活用と呼ぶ。 ●「書く」(基本の形) 「書」(語幹)・「書か」「書こ」(未然形)・「書き」(連用形)・「書く」(終止形)・「書く」(連体形)・「書け」(仮定... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・13
b ほかの語の一人称への転用 【要約】 落語「そこつ長屋」の熊さんは、八さんから「オイ、しっかりしろ。お前はいま浅草で行き倒れになっていたぞ」と言われ、あわてて現場にかけつけた。その死骸を見て、「ああ、たしかにおれだ。熊さんは泣きながら死骸を抱き上げ「この死骸はおれに違いないが、抱いているおれは... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・12
2 代名詞の認識構造 a 話し手の観念的な分裂 「あなた」「かれ」、「あれ」「これ」など、代名詞と称する一連の語がある。名詞に代わって使われるのだから、名詞と同じ意味を持っているかというと、決してそうではない。とりあげている対象は同じであっても、そのとりあげかたがちがっている。とりあげかたのちが... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・11
b 形式名詞あるいは抽象名詞 【要約】 普通の名詞は、話し手が対象の具体的なありかたをとらえた上での表現だが、対象を具体的なありかたとしてとらえられない場合、簡単にしか表現できない場合、簡単に表現して足りる場合には、抽象的に表現することがある。 どちらの場合にも、とりあげた対象は具体的に存在す... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・10
第二章 日本語の文法構造・・その一、客体的表現にはどんな語が使われているか 1 名詞のいろいろ 【要約】 a 対象のありかたとそのとらえかた 言語の構造を考えるとき、話し手が対象とする、現実の世界がどんな構造になっているかをときほぐしていまなければならない。 現実の世界では、いろいろな構成分子... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・9
3 時枝誠記氏の「言語過程説」 これまでの言語学では、言語を一つの道具として理解していた。頭の中に道具があって、これを使って思想を伝達すると考えた。この道具は、概念と聴覚映像とがかたく結びついて構成された精神的な実体と説明され、「言語」または「言語の材料」と呼ばれている。時枝氏はこの言語構成観あ... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・8
第二部 日本語はどういう言語か 第一章 日本語はどう研究されてきたか 1 明治までの日本語の研究 【要約】 古代の日本人の言語観では、私たちの言語表現が霊力を持っていて、表現された内容が現実化するものと考えた。これを「言霊」と呼んでいる。 明治以前に行われた日本語の研究を、現在の言語学者が無視... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・7
2 時枝誠記氏の「風呂敷型統一形式」と「零記号」 すべて認識は、認識の対象と認識する人間(主体)の存在を必要とする。お化けや天使は現実には存在しないが、これを認識する人間は自分の頭の中に空想の対象を想定しているのだから、この意味で対象が存在していることになる。対象をとらえた認識と、それに伴ってう... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・6
第三章 言語の特徴・・その二、客体的表現と主体的表現が分離していること 1 客体的表現をする語と主体的表現をする語がある 【要約】 いま、一切の語を、語形や機能などではなく、対象→認識→表現という過程においてしらべてみると、二つの種類に分けられることがわかる。 一、客体的表現 二、主体的表現 ... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・5
5 音韻およびリズムについて 言語学では、音声と音韻を区別している。個々の音声の個性を引きこれは去った共通の面がある点をとりあげて、これを音韻と呼ぶならわしになっている。これは、表現の二重化の自覚である。音声そのものが言語としての表現ではなく、音韻と呼ばれる面が言語表現であることの自覚である。音... 続きをみる
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「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・4
3 辞書というものの性格 【要約】 《辞書の中に言葉がある》という解釈は正しいだろうか。 「辞書に登録された語彙は、具体的な語の抽象によって成立したものであって、宛も博物学の書に載せられた桜の花の挿画の様なものであって、具体的個物の見本に過ぎないのである。辞書は具体的言語に関する科学的操作の結果... 続きをみる