梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

2023年5月のブログ記事

  • 江戸川殺人 教諭逮捕から1週間

     殺害容疑で江戸川区の中学教諭が逮捕されてから1週間が経った。しかし、事件の真相は一向に明かされない、教諭自身が黙秘を続けているからである。新聞報道(東京新聞5月17日付け朝刊)によれば、教諭と被害者の「二人にどんな接点があったのか、なかなか見えてこない」と警視庁の捜査幹部が漏らしているそうだ。二... 続きをみる

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  • 中学校教員の《殺人容疑》

     信じられないことだが、中学校教員の殺人容疑は深まったようだ。本人は取り調べに対して黙秘しているそうだが、もし無実ならば堂々と応じればよいのだから・・・。  そして、これもまた信じられないことだが、その教員が10年以上も特別支援教育に携わってきており、しかも校長から教員の「手本」として高い評価を受... 続きをみる

  • 親子の絆

     自宅はT字路の突き当たりに建っているので、2階の窓から、こちらに向かってくる道路を、人が往来する姿を見ることができる。いつものことだが、朝七時を過ぎると、二人の幼児を両手につないだ若い母親がやってくる。母親は幼児を保育園に送りながら、勤めに出向く途中なのだろう。休日には、幼児の兄と思われる小学生... 続きをみる

  • 「中学教諭 殺人疑い逮捕」

     東京新聞5月11日付け朝刊23面に、衝撃的な記事が載った。「中学教諭 殺人疑い逮捕」という見出しである。にわかには信じがたいが、今年の2月、江戸川区の住宅で、住人の男性が刃物で切りつけられ、殺害された事件の容疑者として中学教諭が昨日10日に逮捕された、ということである。その教諭は12年間、特別支... 続きをみる

  • 私の戦後70年・テレビ

     昭和35年以降、日本の家庭にはテレビが爆発的に普及、老いも若きもその魅力に取り憑かれた。とりわけカラーテレビが出現することによって日本人の「色彩感覚」は一変したと思う。私の父は、多くの子どもたちがその画面を食い入るように見つめている様子を見て「これで日本はダメになる」と呟いたが、事実、日本人の「... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・不良

     中学2年が終わる春休み、私はK君、H君と三人で、郊外・深大寺周辺の風景を写生しに行った。私以外は、油絵の具、イーゼル持参、本格的な装備だった。裏手の草原(今の神代植物園の辺り)で、楽しく絵を描き、弁当を食べ終わった頃であろうか、向こうの彼方に五、六人の人影が見えた。何気なく眺めていると、その人影... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・弁当

     中学に進学すると、昼食は弁当持参となった。裕福な家庭の生徒は魔法瓶にお茶を入れ、白米用の弁当箱の他に、卵焼き、鮭、ウインナーソーセージ、サラダなどの総菜用の弁当箱が加わった。リンゴ、ミカンなどのデザートを持参する者もいた。弁当が準備できない家庭の生徒は「パン券」を利用した。それに記名して指定の箱... 続きをみる

  • 私の戦後70年・音楽の授業

     中学校の音楽の授業は苦痛だった。先生は見るからに軍人上がりといった風貌で、雰囲気は厳格そのもの、課題曲の歌詞を長々と説明した後、ニコリともせずピアノを伴奏して生徒に歌わせる。集中力が薄れてざわつきでもしようものなら、たちまち「そこのお前、何をしているんだ!」という怒声がとんでくる。私は「音を楽し... 続きをみる

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  • 人生はやり直せる

     東京新聞5月7日付け朝刊3面「この人」欄に「山谷で清掃活動を続ける元受刑者 藤澤丈明さん(73)」というタイトルで以下の記事が載っている。 〈東京・山谷でボランティアの清掃を約3年半、続けている。「路上のごみを拾って、見知らぬ人に感謝されると、うれしい」。週1回、空き缶や紙くず、たばこの吸い殻を... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・新聞配達

     小学校時代から仲良しのK君が中学2年で新聞配達を始めた。彼は得た賃金で文庫本「次郎物語」を読んでいる。その姿がたまらなく魅力的でうらやましかった。「自分もやりたい」と私は父に懇願し承認を得た。さっそくK君に頼み込み、繁華街周辺の「夕刊配達」を始めた。「読売新聞」に混じって「毎夕新聞」「サン写真ニ... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・体育大会

     小学校の運動会は中学では「体育大会」、徒競走は100メートル走と名称が変わった。陸上競技部員だった私は、当然100メートル走で1着にならなければならない。クラスメートはそうなるものと期待して、私のスタートに注目していた。しかし、結果は意外にも着外、「ナーンダ」という侮蔑の声があちこちで聞かれた。... 続きをみる

  • 私の戦後70年・陸上競技部

     中学1年生になり、私は陸上競技部に入部した。野球部、ハンドボール部などに比べて人気は薄く、新入部員は三人だけであった。初めての活動日、部長は私たち三人に向かって「まじめにやれよ、サボるなよ。」と言った。サボる?、練習するために入ったのだから覚悟はできている、と思ったが、いざ始まると先輩には着いて... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・中学校入学式

     昭和32年4月、私は「学区外」の中学校に入学した。入学式は校庭で行われ、担任が新入生を一人一人、呼名する、呼ばれた生徒は「ハイ」と叫んで起立する。順番が回り、私も返事をして起立、不動の姿勢をとったが、その直後に「笑い声」が上がった。「コウタロウ」という名前が古めかしく、時代遅れだったからであろう... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・学区外通学

     昭和27年の大晦日に祖母を亡くし、父と私は文字通り「父子家庭」の生活を始めた。 申し込んでいた公団住宅が当たったので、これまでの間借生活は終了、他区に新築された鉄筋コンクリート4階建ての公団住宅に転居した。小学校3年生の時である。当然、転校しなければならないが、父は担任の先生に頼み込み、特別に「... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・メガネ

     小学校入学時から私の視力は弱かったが、四年生の頃から黒板の字が見えなくなった。メガネをかけたいと思ったが、恥ずかしくて言い出すことができなかった。クラスの誰ひとりメガネを装用していない。学校の視力検査でも「見えない」ことを隠したい。私は順番がくるまでに検査表の文字列を必死で憶えた。「コ・ナ・ル・... 続きをみる

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  • 私の戦後70年・神宮球場

     小学校時代の男児の遊びといえば野球、焼け跡の原っぱで、時間を忘れて興じたものである。春・秋には、父に連れられて信濃町の神宮球場に通った。当時の東京六大学野球はプロ野球と肩を並べるほどの人気があった。外野席の芝生に座って観戦することが多かったが、私は極度の近視のため、ボールの行方を追うことができな... 続きをみる

  • 私の戦後70年・学校給食

     戦後の小学生は、昭和33年頃まで給食で「脱脂粉乳」を飲まされた。喜んで飲む子どもは少なく、ほとんどが目をつむり鼻をつまんで一気に飲み干す。中には隠れて流しに捨てる子どももいた。当時の小学生は毎日、給食袋にアルミの皿、コップ、椀を入れて登校した。給食の献立は三品、コッペパン、ミルク、総菜だけであっ... 続きをみる

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