梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・42

《同一視説》
【要約】
 “同一視”とは、他者と自己を混同することをいう。精神分析の創始者フロイト(Freud)
は、親に対する子どもの同一視が人格の基本要因であることを主張し、その後の人格理論、社会心理学、さらには学習理論をふくむ行動理論に大きな影響を与えている。フロイトの場合には、同一視を、愛着に原因するもののほかに、攻撃に原因するものと防衛に原因とするものに分けたが、今日の多くの理論が愛着的な同一視を強調しているように思われる。“愛着”とは、この場合は、他者に対するきわめて強い関心あるいは情を意味し、幼時においては、それは自己愛と他者に対する成熟した愛情との中間にあるものであり、“依他的自己愛”である。近年、この依他的自己愛に基づく同一視の形成過程についてつぎのような解釈が行われている(Sears,1957:Whiting and Child,1953)。同一視は依存動因の結果として生じてくるが、この動因は母子の間の養育的な相互作用を通じて生まれてくるものである。子どもはこの相互作用の過程で母親の存在とその養育活動を求めるようになるのである。ところが、この動因を母親はつねに充たしてやるわけにはいかないところから、母親の行動を子どもが模写することによって、それに代えようとする傾向が子どもに生じてくる。しかも、このような模写行為は母親が承認し奨励することで直接報酬を受けるので、ますます強められる。このような考え方は、すでに述べたMowerの自閉説にきわめて近い。要するに、これらの主張は精神分析理論を強化学習理論に調和させようとする試みにほかならない。
 上記の説は、子どもが成人の行動に漸次、同調するようになる理由を説明するものであって、社会行動の発達についての注目すべき原理を提供しているといえる。しかし、この大まかな同調行動の原理だけで音声模倣の細部の発達過程を理解することは不可能であり、音声模倣には音声についての特殊的な経験がふくまれなければならないであろう。この意味では、外的強化説のほうが有力であり、さらに、つぎのルイスの主張も一考に値すると思われる。
 ルイスは、音声模倣を喃語活動への成人の音声的干渉の結果であるとし、つぎのように述べている。
“反復される喃語活動の経過のなかで、音声の聴取と発声の交替的パターンが形成され、子どもが喃語活動をしているときに、成人が子どもの音声の一部を模倣して反復すると、聞かれた音声は交替的パターンの一部となり、ついには聞かれた音声は音声面および音調面において、刺激とよく似た発声を喚起するのに有効な性質を帯びるようになる(Lewis,1951)”。
 村井(1961)も、このルイスの説に従い、さらに強化要因を付加して、つぎのように述べている。
⑴はじめに、育児者が子どもの喃語を模倣する。子どもがある種の発声を行ったとき、その途中からそれと類似する音声を育児者が発する。子どもがそのとき、自分の音声を聞いていることになる。子どもの認知は主観と客観の未分化な水準にあるので、自己の発声が育児者の発声と重なり始めたところからあとは、子どもにとっては模倣行動となり、ここに模倣の学習セットが形成される。
⑵子どもの発声はそれの持続中に、育児者の発声によって強化(報酬)されるのであり、育児者の音声は強化因である。
 この種の親子間の“かけあい”が、実際にしばしば生じ、これがある意味(非常に一般的な)での音声模倣の訓練の一つの型であり、ひいては言語発達の一要因であることはまいがいない。ルイスや村井は、初期の音声模倣のきっかけとして、このような母子相互作用をとりあげたと思われる。
 (以下略) 


【感想】
 子どもが音声模倣を始めるのは、「はじめに、育児者が子どもの喃語を模倣する」からであるという説に、私もまた全面的に同意する。
 逆に言えば、子どもが音声模倣をしないのは(喃語活動が活発にならないのは)、育児者が子どもの発声を模倣しないからだということになる。
 20世紀の初頭、アメリカの行動学者ワトソン博士は、子どもを早くから自立させるために、子どもに対して「赤ちゃん扱いしない」「甘やかさない」「赤ちゃん言葉で話しかけない」という育児法を提唱している。その影響は現代にも及んでおり、スポック博士もまた、抱き癖を防ぐために。赤ちゃんが泣いていても「放っておくように」というアドバイスをしていた。
 自閉症児の場合、「泣き声が弱かった」「泣くことが少なかった」「おとなしく育てやすかった」ことが指摘され、喃語活動に関してもその実態はあまり解明されていないように思われる。自閉症が「脳の機能障害である(と推定されている)」ことから、「母子相互作用」の《ありかた》は「不問にされる」傾向はないだろうか。それが、自閉症の要因であるか否かという問題とは全くかかわりなく、自閉症児と育児者の「相互作用」を見極めることはきわめて重要である、と私は思う。
 もし、育児者がワトソン博士やスポック博士の育児法を採り入れていたら、子どもの喃語活動を「模倣する」ことなど《論外》だと排除されるだろう。
 自閉症児の「音声模倣」は、「母子相互作用」(“かけあい”)による「肉声」ではなく、スピーカから聞こえる「機械音」を相手にした「外的強化」によってもたらされたのではないだろうか、と私は考えている。(2018.6.17)