梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・40

《連続発達説》
【要約】
 音声模倣の発達が連続的だとする見解は二つに大別することができる。一つは、音声模倣が出生後きわめて早期から認められるとする見解であり、もう一つはほぼルイスの第3段階から生じるとするものである。
 前者に属する連続発達説はピアジェ(Piaget,1945)によって代表される。彼は生後ほぼ2ヶ年間の感覚運動期における模倣の漸次的で連続的な発達を認めている。感覚ー運動期の六つの発達段階に、音声模倣の特徴をつぎのようにふりあてている。
 第1段階は実際上、音声模倣は生じない。模倣ではなく、音声への共鳴が生じるだけである。しかし、この共鳴は模倣へ進む基礎工作である。第2段階では、“発生的感染”が認められる。これは手本音声が持続している間だけ、発声行為が維持されるという特性に対して名づけられている。第3段階では、聞いた音声が消えたのちも、これを維持するための発声が生じる。ここには積極的・意図的な傾向はあるが、まだ十分安定した、規則的で類似度の高い音声は期待できない。第4段階では、自分自身の見ることのできない自分の行為を用いた模倣ができるようになってくるので、新しい音声の本格的な模倣がようやく現れる。これはピアジェが“手本の意図的再生産”とよんだものである。しかし、新しい音声への模倣は、なお探索的な性質を残している。第5段階で、はじめて音声模倣は組織的“実験”に訴えられる。不正確な模倣は、他者の矯正や注意がなくても、自発的に訂正されるようになる。第6段階では延滞模倣ができるようになるので、音声模倣にも内化が生じ、事象の表示に模倣音声を用いることができるようになる。つまり、語を表示的に使用することができるようになる。このように、ピアジェの説では、模倣活動は大きな質的変化をしながらも、感覚運動期のほぼ全体を一貫して発達するのである。
 もう一つの連続説は、0歳9ヶ月~0歳10ヶ月ごろ、音声模倣がはじめて開始されると考えている。この説では、音声模倣に厳格な基準を与え、“原初形”のような音声型は模倣のなかに加えられない。ルイスらの立場が力動的・機能的・追跡的な見地であるのに対して、静的・形式的・基準設定的な立場といえるだろう。キャッテル(Cattell,1940)は0歳9ヶ月、ゲゼル(Gesell,1928)、ベイリー(Bayley,1932)は0歳11ヶ月で音声模倣が可能になるとしている。
《対立における問題点》
 音声模倣開始期についての見解の不一致をおこさせている最も大きな原因は、二つあると思われる。一つは、模倣を顕現的なものとして定義するか、潜在的なものもふくめるかという問題である。ルイスとピアジェの対立は、模倣の定義にあるのではなく、彼らの観察した事実のくいちがいに求めなければならない。ピアジェの観察では、音声模倣行為は明らかに連続しており、ルイスの観察では明らかに非連続である。
 第二に、発生論的見地と基準設定的見地との対立がある。発生論的見地からすれば、音声模倣機制の発生の源流にまで遡ることが必要であり、いきおい“音声模倣”の範囲の拡張が生じてくる。基準設定的なアプローチでは、言語的模倣という最も安全な内輪な基準が利用されるために、音声模倣の開始期は発生論的アプローチの場合よりも、かなりあとの時期になってくる。
 音声模倣の今後の研究について、つぎの二つの点が留意されなければならないと思う。第一は“音声模倣”を具体的な操作に結びつけて定義することである。このことによって発生論的なアプローチと基準的アプローチとからもたらされる知見が統合される。第二は、音声模倣の正しい記述である。ルイスとピアジェにみられるような観察“事実”の上での明かなくい違いは、致命的な欠陥であり、さらに徹底した条件の統制のもとでの大量の追跡的観察がなされなければならないであろう。


【感想】
 これまで述べられていることは、要するに、子どもが「音声模倣」をいつから始めるかという時期に、研究者の間で差が生じているということである。
 私の関心は「自閉症児の言語発達」であり、自閉症児の「音声模倣」はどのような経過をたどるか、という一点なのだが、ここまでの論述では解明することができなかった。
 私の知る自閉症児は、明らかに「音声模倣」をしている。音楽のリズムやメロディー、テレビ番組のアナウンス、天気予報、駅構内、車内のアナウンスなどなど・・・。しかし、対話がスムーズにできない。同年齢の仲間の中に入れない。それはいったいなぜなのか。 ルイスのいう第2段階(「模倣潜伏期」)、ピアジェのいう第1段階から第4段階までの間に獲得すべきものが不十分なまま、いきなりルイスのいう第3段階、ピアジェのいう第5段階、そしてキャッテルやゲゼルが認める「音声模倣」が始まってしまったのではないか、と私は考えている。音楽のリズムやメロディーを模倣できるのに、談話のリズムやメロディー(抑揚、音色)を模倣できない(一本調子になる)のはなぜか。次節を読み進めることで、何らかのヒントが得られるのではないか、と期待している。
(2018.6.4)