梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「生きていく(成仏できない)私」

 いったい私は何のために生きている(成仏できない)のだろうか。そんなことはわかるはずがない。強いて言えば、(自分の意思とはかかわりなく)「生まれてしまったから」生きているのである。つまり、私は、「自分から生まれよう」と思って生まれてきたのではない。では誰の意思か。直接的には「両親」の意思ということになるだろう。だがしかし、私の場合、(伝聞に依れば)父親よりも母親の意思の方が強かった。事実、私は両親がともに39歳の時、初産で誕生したのだから。父親は単独で満州に出奔、母親は、親類一同が止めるのも聞かずに、その後を追ったという。再会してみれば、父親は別の女性と同棲中、そこを無理矢理「結婚」して私を生んだとのこと、畢竟、私は母親のために「生まれてきた」ようなものである。とは言え、皮肉なことに、まもなく(5か月後)母親は他界(病死)という有様で、私の誕生を心底から願っていた人物(母親)を失ったまま、私の人生がスタートしたことになるのだろう。父親もまもなく応召、私は父親の友人に預けられたまま、日本に引き揚げたということになる。戦後、父親は私と再会、いわゆる父子家庭で私を養育する羽目になったが、その方針は甘やかし放題、結果としてこのような「へそ曲がり」「天の邪鬼」然とした人格が形成されてしまった次第である。私は、心底から感動することができない。相手の心情を共感することができない。いつも、その場からドロップアウトしようとする。私は赤面恐怖症である。加えて完璧なエゴイストだ。にもかかわらず、こともあろうに、成人してからの35年間、子どもを相手にした職業(教員)に携わったのだから、なんとも恐ろしい話である。それは、すべて生きるため、「何のために生きるか」などと思ったことは一度もなかったのだが・・・。それは「今は昔」の物語で、すでに職なく、家なく、身内なく、天涯孤独となった私は、何のために生きているのだろうか、と言ったところで、私は仏教の本を手にしたのだが、これがたいそう面白い。まず第一に、仏教の創始者・釈迦牟尼仏もまた(私同様)「母なし子」であったというではないか。加えて、その教義の根本が「いい加減がよい」(中道精神)、人生は「生老病死」、本質は「苦」(思い通りになることはない)、解決策はただ一点「欲を捨てること」にある、という件は、まさに(私には)うってつけ、今日もまた「何だっていいじゃないか」と(居直って)生きていく他はないのである。それにしても死にたい(成仏したい)。どうすればその願いを叶えることができるのだろうか。
(2010.2.17)