梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・58

■範疇化
【要約】
 代表過程の発生と発達を具体的に考えてみる。認知に対して作用する代表機能は、要するに、客観的事象を意味的なものへと変形することであり、範疇化することである。
 特定の1匹の動物が特定の“そのもの”としてではなく、“イヌ”という範疇(カテゴリー)ないし級(クラス)に入れられるときに、その動物ははじめて、イヌとして意味づけられる。その1匹の動物が、一部は別の諸性質(たとえば、大きさや色)が異なる一群の対象の級によって代表されるということに他ならない。


【感想】
 これまでわからなかった「代表過程」「代表機能」ということがわかった。この世に存在する事物は一つとして同じ物はない。しかし、人間は、それらの事物の属性等に「共通点」を見出し(異同弁別をし)、範疇化する。その範疇化が顕現したものが「言語」であるということである。様々な事物を範疇化(分類)した結果が「概念」であり、それを具現化したものが「言語」(音声・文字)であるとすれば、なるほど前節で著者が結んだように、「談話」(言語的象徴行動)は、代表過程(範疇化)からの強い統制を受ける行動の「代表的なもの」であるに違いない。
 私自身は、「談話」(言語的象徴行動)の中でも、音声による感情表現(泣き声、笑い声、呼び声、叫び声、溜息など)の「共感」「交換」が最も重要であると考えているが、以後の論述はどうなるか、興味を持って読み進めたい。(2018.8.1)

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・57

《ピアジェの見解》
【要約】
 ピアジェ(Piaget,1933,1934,1945)は、知覚が行為的経験を媒介としてはじめて発達すると考えている。前述したマッチ箱場面(父親が1歳4カ月の女児の目の前でマッチ箱をあけ、そのなかに鎖を入れ、箱の口を少しあけたまま彼女にさし出す。彼女は鎖を取りだそうとして種々の行動的探索を試み、失敗に終わると、箱の口を一心に見つめながら、自分の口を何度か開閉した。はじめ、口を少ししか開けなかったが、次第に広く開けるようになった。ピアジェは、これは箱の口の空洞性を理解し、これを自分の口の行為で表そうとしているのであり、口の行為は箱の口の象徴とみられ、これは初期における象徴行為であるという。彼女の用いた象徴は音声によってではなく、非音声行為によって作られている。さらに、この口の行為は目的達成のために直接有効なものではなく、目的に対する手段的行為でもない。それは行為を媒介とした“思考”なのである)で生じている子どもの行為に注目すべき三つの特徴がある。
⑴ それは対象への働きかけの試みではなく、知覚に伴う現象である。実用的な目的のための手段ではなく、感覚素材から知覚を構成するための行為である。この行為はこの年齢の子どもの知識獲得の手段として常套的なものである。その素材は感覚の世界から与えられているが、単なる知覚の延長でもなければ、感覚運動的模倣でもない。それは一種の構成物であり“代表性模倣”の所産である。
⑵ 感覚素材を何らかの反応によって、行為として再現しようとする工夫が、物を対象化し明確な存在として把握するためになされる。これが初期図式化活動の基本的特徴である。象徴行為は、発生期には、代表機能を行為から独立させる契機を作る。
⑶ この行為は物の運動そのままの模写ではない。物の特性を反影させながらも模倣ではないということが重要であり、これが人間独特の行為様式である。この行為様式こそ、“非知覚的世界”へ人間を参加させる初歩階梯である。  
 上記のピアジェの所説は、広い支持をえつつある。
 ブルーナー(Bruner,1964;Bruner et ai.,1966)は代表過程を個体発生的に三つの発達段階に区分している。まずはじめに、行為的代表過程が生じる。ここでは自己の適切な運動反応を媒介として事象の代表化が達成される。つぎに、模像的代表過程の期がくる。ここではオノパトペから音象徴へとつづく原初的象徴行動に対応する代表過程が発声する。最後に“象徴的”代表過程の時期がくる。ここの“象徴的”とは、“言語的―文法的”ということと同義である。
 筆者は、上述のピアジェやブルーナーに近い見解をとる。代表機能と象徴機能とは、厳密に区別しなければならないが、それらが独立に機能しうるのは、感覚運動的な水準を超えたのちである。ピアジェは、代表過程の側でのこの独立を、“表象”の発生に求めている。表象が形成されるにいたって、象徴機能はかえって代表機能に規定されるようになる、と考えられる。
 ヘッブ(Hebb,1958)は、この種の独立した代表過程(媒介過程)は、中枢における入力に対する切り換え装置の役を果たすものであり、ある神経生理学的な機構においてその興奮が保持されるような、一種の閉回路をなす内的連鎖構造である、と考えている。このようにして、顕現行動のなかに、代表過程からの強い統制を受ける行動がいくつか生じてくるわけだが、その代表的なものが言語的象徴行動、つまり談話にほかならないのである。


【感想】
 ここでは、知覚は行為的経験の媒介によって生じ、発達するというピアジェやブルーナーの見解が紹介されている。
 ピアジェは、1歳4カ月の女児が、マッチ箱に入れられた鎖を取りだそうとして、自分の口を開けたという行為を見て、その行為は“代表的模倣”の所産であり、初期図式化活動であり、“非知覚的世界”へ人間を参加させる初歩階梯である、としている。
 私は前節(ウェルナーの見解)で「代表機能」の意味がわからなかった。ピアジェの見解を読んでも、依然としてわからなかった。
 筆者は、最後に「談話」(言語的象徴行動)は、代表過程からの強い統制を受ける行動の「代表的なもの」と結んでいるが、その代表過程とはどのような過程なのか、また代表機能と象徴機能はどのように区別されなければならないのか、私の疑問は残ったままである。(2018.7.31)

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・56

■認知と行為
【要約】
 代表機能の最も単純で直接な水準は知覚である。知覚が行為的な経験とどのように因果的に関係しているかについて、二つの対立する見解がある。その一つは、人間の知覚は代表機能によって支えられるが、この機能は、人間においては視覚や聴覚とならんで一つの基本的で生得的な能力であり、行為とは独立した機構であるという見解であって、ウェルナーによって代表される。他方、知覚は行為的経験の媒介を通じて生じ、かつ発達するという見解があるであろう。
《ウェルナーの見解》
 最近、ウェルナーとカプラン(Werner and Kaplan,1963)は、つぎのような意見を提出している。代表機能は“適応の結果”ではなく、あらかじめ用意されたものである。代表機能には象徴活動のような顕現的な外界への働きかけを通じないで発動される静観的性質があり、このような純粋な内的な経験活動の結果として、人間の認知体系は形成される。これが知識である。知識を求める働きは、外界に働きかけそれに影響を及ぼす自分自身も外界から影響を受ける顕現的な行動とは、はじめから異なるものである。それはいかなる先行行為にも原因を求めることができず、これが人間を動物から区別する最大の目印である。動物の行動は、本能的なもの習慣的なものもふくめて、外界の“既成の事実”の反映にすぎないが、人間にとっては、環境は生まれ落ちたときには“無名の世界”であり、動物に与えられているような秩序や方向性はもっていない。このような未成の状態こそ、人間の知識の獲得を可能にさせる要件である。
 対象を発見し、それについて知ろうとするのは人間だけであるが、それには一定の成熟的順序がある。
 第1段階では、対象の表現性の認知が生じる。対象が表現的なものとして認知されるということが、物の対象的認知の出発点である。第2段階では、同じ表現特性を多くの対象にまで拡張して適用することによって、“相貌化”が成立する。第3段階では、意味を伝える意図的行為の形成される時期であり、ここで経験の一つの事項を他の項目で代表させることができるようになる。そして第4段階において、言語的な代表機能が認知で中心的な地位を占めるようになる。


【感想】
 ここで述べられていることは、私にとっては極めて「難解」で、理解不能であった。
まず第一に、「代表機能」ということがわからない。さまざまな対象を知覚するのに「代表機能」に支えられるとはどういうことだろうか。紹介されているウェルナーとカプランの意見も、代表機能は“適応の結果”ではなく、あらかじめ用意されたものである、ということがわからない。知識と、知識を求める働きとははじめから異なる、ということもわからない。知識は、人間と動物を区別する最大の目印である、ということは、人間には知識があるが動物にはない、ということだろうか。
 さらに、対象を発見し、それについて知ろうとするのには「一定の成熟的順序」があるとし、第1段階では、「対象の表現性の認知が生じる」とあるが、「対象の表現性」とはどういうことなのか理解できなかった。
 いずれにおいても理解できないのは、《具体例がない》からだと、私は思うが、先を読み進めることでわかることがあるかもしれない。
(2018.7.30)