昨日、今日と、「子殺し」に関する記事が新聞報道されている。《その1》東京新聞5月23日付け朝刊(23面)「本音のコラム・子殺しに思う」(宮子あずさ・看護師):〈5月14日、生後4カ月の長男を殺した母親が逮捕された。殺された子どもはダウン症。母親は「育児に疲れた。一緒に死のうと思った」と話しているという。これを読んだら、やっぱりどうしても、ダウン症の義弟のことを考えてしまう。生後4カ月であれば、かかる手間が健常児と大きく違うとは思えない。心労の元は、もっぱら将来への不安だったのではないだろうか。その前提に立つと、彼女がダウン症の子どもの将来をどのように思い描いていたのかが気にかかる。(後略)〉
《その2》東京新聞5月24日付け朝刊(29面)「16歳長女を監禁 浴室で縛り死なす 容疑の母逮捕 虐待常態化か」:〈岡山西署は23日、特別支援学校高等部1年の長女(16)を裸にして縛った上、浴室に立たせて監禁、低体温症で死亡させたとして、逮捕監禁致死の疑いで母親の岡山市○○区、無職○○○○容疑者(37)を逮捕した。(中略)同署によると、死亡した長女○○さんは知的障害があり。○○容疑者と二人暮らし。発見時、身長137㌢、体重27㌔しかなく、体には以前についたとみられるあざや皮膚の変色が数カ所あった。同署は日常的に虐待の可能性もあるとみて経緯を調べている〉。いずれも、「子殺し」の典型的な事例だと思われるが、私は、加害者となってしまった母親たちの気持ちがよくわかる。宮子あずさ氏は言う。「心労の元は、もっぱら将来への不安だったのではないだろうか」おっしゃるとおり、それゆえに、わが子の将来を思い描くことなどできようはずがなかったに違いない。否、否、違う。まさに《その2》のような事例をこそ思い描いていたのではないだろうか。私の独断と偏見によれば、問題の要因はただ一つ。「人は『人並み』でなければならない」という、(世間の因習的な)価値観に誰もが囚われていることである。それは「日本国憲法」で保障されている「基本的人権」という価値観とは真っ向から対立する。当事者である母親、彼女を逮捕、取り調べている警察署員、事件を報道する関係者、その記事の読者(当然、私を含む)、要するに日本国民が、「基本的人権」という価値観を知らないはずがない。にもかかわらず、それを具現化することができないのはなぜか。そのことが、今、私たちに問われているのである。「子殺し」の犯人は母親である。では、母親を犯人にさせてしまった「犯人」は誰か。《その2》の関係者(警察署員?新聞記者?)は冷酷にも言い放つ。「発見時、身長137㌢、体重27㌔しかなく・・・」。その事実は、はたして母親の責任といえるだろうか。「しかなく」という文言は、「人は『人並み』でなければならない」という価値観の具現化そのものではないか。それは当然にも《その1》の事例に共通する。母親の心中には「わが子がダウン症でしかなく・・・」という価値観が去来していたに違いない。前述の宮子氏は言う。〈結婚して二十年。16歳から36歳になる義弟を見てきたが、レストランの厨房で働き、選挙では投票もし、基本的には自立した生活をしている彼を見ると、「生後4カ月で死んだ方がよかった」とは間違っても思わない。(中略)義弟を見ていると、日々楽しそうに暮らしていて、あれはあれで悪くない人生じゃないかと思う。何より、自分の人生をどう感じるかわからないこと。先行き不幸と決めつける人々の意識こそ、偏見に他ならない〉。このような卓見が「人口に膾炙する」日を待ちわびたい。
(2011.5.24)
もともとヴォードヴィリアンだった渥美清を,国民的な俳優に仕立て上げたのが映画「男はつらいよ」のシリーズであったが,そのことで渥美清は本当につらくなってしまったのだと,私は思う。浅草時代の関敬六,谷幹一,テレビ時代の平凡太郎,谷村昌彦らと同様に,渥美清はスラップ・スティック・コメディの喜劇役者であってこそ光り輝く存在であった。映画「男はつらいよ」は48本作られたが,テレビ時代に比べて出色の作品は少なかった。その要因はいくつか考えられるが,一言で言えば,製作関係者が第一作の大当たりを契機に興行成績を優先したことであろう。人気が続く限り,車寅次郎は,渥美清が死を迎えるまで死ねなくなったのである。生きることは,いつ終わるともわからない演技を続けることだといえなくもないが,それが仕事となれば男でなくても「つらいよ」と溜息がでてくるのは当然である。
テレビの「男はつらいよ」の原題は「愚兄賢妹」という人情喜劇として企画された。やくざなテキ屋稼業の愚兄・車寅次郎(渥美清)の行状を,賢妹・さくら(長山藍子)が物語るという形で展開する,どちらかといえばスラップ・スティック・コメディに近いできばえであった。
いうまでもなくドタバタ喜劇は,複数の役者の集団演技によって組み立てられる。渥美清の演技力は,周囲の役者に因るところが大きいが,特に車竜造役・森川信の存在は大きかった。ヴォードヴィリアンとして卓越した風格の森川信に比べれば,渥美清の演技などは,まだまだ「駆け出しもの」のそれでしかないのである。渥美清と「殴り合い」を演じて様になるのは,森川信をおいて他にいない。というより,渥美清は,森川信という大先輩の胸を借り,その懐に育まれて初めて車寅次郎という人物を演じることができたといっても過言ではないだろう。渥美清は,森川信の前だからこそ,自分の演技力を思う存分,十二分に発揮できたのだと思う。「馬鹿だねえ,あいつは。本当に馬鹿なんだから」と,竜造が受け止めてくれたからこそ,寅次郎は本当に馬鹿ができたのだ。
映画の時代になっても,森川信が出演する作品までは,渥美清の演技力は精彩を放っていたが,竜造役が松村達雄,下条正巳になったとたんに全く消沈してしまった。つまり,寅次郎の「柄の悪さ」「品のなさ」を受け止め,ある種の風格へと昇華してくれる人物像がいなくなってしまったのである。テレビ作品の第一作で,森川信の竜造は,寅次郎が連れてきたテキ屋仲間と深夜までどんちゃん騒ぎを続け,挙げ句の果てに「後家殺しの竜」とまで口走って,おばちゃん(杉山とく子)にひっぱたかれるのである。
そういえば,おばちゃん役の杉山とく子も出色であった。おばちゃんは決して聡明ではないし,庶民特有の計算高さも身に付けている。単なるお人好しではないのである。うらぶれた下町のおばちゃんの,一見いじわるそうで実は憎めない,一本気な女性像を杉山とく子は鮮やかに演じていた。だからこそ寅次郎は,そうしたおばちゃんの前でも,遠慮なく馬鹿ができたのである。
テレビでは,家を出てから十余年ぶりに寅次郎が柴又に帰ってきたとき,おばちゃんは顔を直視しても,寅次郎が誰だかわからなかった。しかし,映画のおばちゃん役・三崎千恵子は,帝釈天のお祭りの雑踏の中で,何の苦もなく寅次郎を見つけだすことができた。聡明という他はない。三崎千恵子のおばちゃんには,杉山とく子のような毒気がない。根っからのお人好しなのである。まだ森川信がいる間はともかく,竜造役が変わってからは寅次郎の「柄の悪さ」「品のなさ」に付き合ってくれる役者は消滅し,ドラマの中だけでなく渥美清の「つらさ」は倍増したに違いない。
同じことは,テレビのさくら役・長山藍子,映画の倍賞千恵子,博(士)役・井川比佐志,前田吟についても言える。結論すれば,前者は「影」「大人」「夜」のイメージ,後者は「光」「青春」「太陽」のイメージとでもいえようか。
長山藍子,井川比佐志の演技には,どこか思わせぶりな「影」(秘密)の部分があった。しかし,倍賞千恵子,前田吟の演技は,直情径行であり,全てをさらけ出しているように感じる。言い換えれば,映画のさくらと博は,「健全」そのものなのである。彼らもまた,聡明であり,毒気がない。
映画を見た人たちから,車寅次郎は不感症ではなかったか,という感想を聞いたことがあるが,そうではないと私は思う。車寅次郎は本人も言うとおり「あても果てしもない」渡世人の生活をしているのであって,「不健全」そのものに他ならない。その生活をリアルに表現すれば,鶴田浩二,高倉健らが演ずる任侠映画の世界と変わらなくなってしまう。車寅次郎のマドンナ以外との濡れ場などは「絵」として不要だっただけである。「殺したいほど惚れてはいたが,指も触れずに別れたぜ」と唄うだけで十分であった。テレビ時代にあった,「影」「大人」「夜」のイメージは払拭され,渥美清は,存在するはずのない,健全なやくざ「フーテンの寅」を独りで演じ続けなければならなかった。
森川信が出演しない映画作品の中で,唯一,秀逸の作品があった。「男はつらいよ・霧にむせぶ寅次郎」である。筋書きそのものは,他と同様のパターンであるが,テレビ時代にあった「影」「大人」「夜」のイメージやドタバタの場面が,わずかに表れていたのである。マドンナは,フーテンの風子(中原理恵),その愛人がオートバイサーカスのトニー(渡瀬恒彦),他にも関敬六,谷幹一,津坂匡章(後の秋野大作),美保純など役者はそろっていた。
どこが秀逸だったかと言えば,マドンナ・風子の「柄の悪さ」「品のなさ」が,一時ではあるが,寅次郎と真っ正面から対立し,虚飾に満ちた健全ムードをぶちこわした点である。場所はとらやの店内,竜造の口利きで風子の就職先も決まった,風子はトニーに別れ話をつけに行くという,寅次郎は「あいつのところだったら行くことはない,さっき話をつけてきた」といって風子を止める。風子はカチンときた。「頼まれもしないことをどうしてしたのか,寅さんとは関係ない」といって寅次郎を責める。寅次郎は「関係ない?」と言って言葉を失った。おいちゃんも,おばちゃんも「寅ちゃんはあんなに心配していたんだから,関係ないはないだろう」と寅次郎に助け船を出した。風子は,頭に来た。「じゃあ,私とトニーが話し合ってはいけないと言うんですか」寅次郎は,わかったように風子をたしなめる。「話し合ったってしょうがないじゃないか,あんな遊び人と。」その言葉に風子は激昂した。「遊び人だったら寅さんだってそうでしょう,渡世人同士だって,さっき言ったじゃないか」寅次郎にはもう返す言葉がない。さくらに取りなされて,風子は本当の気持ちをうち明けた。「トニーはだらしなくて,甘えん坊でやぶれかぶれ,そんなことはわかっている,でも私さえちゃんとしていればいつかはきっと帰ってくれる,そう思ってつきあっていたんだよ」
風子の,この気持ちを誰も責めることはできない。なぜなら,他ならぬさくら,おいちゃん,おばちゃん,そして博たちが日頃寅次郎に抱いている気持ちと瓜二つのものであったからだ。健全な博がつぶやいた。「こんな悲しい結末になるなんてなあ・・・。」もはや寅次郎の出る幕は完全になくなったのである。
実を言えば,この少し前に,寅次郎がトニーに話をつけに行く場面があった。場所はトニーが寝泊まりしている安アパートの近く,ビルの谷間を流れる汚れた運河の船着き場,ショーの失敗で骨折した左腕を吊りながら,トニーがやってくる。寅次郎は言った。「用件はわかっているだろうな,ズバリ言わしてもらうぜ,手を引いてもらいてえんだ」トニーの表情が変わった。「女のことで他人に指図されたくなんかねえな」,柄の悪さではトニーの方が上であった。寅次郎ははしかたなく談合を試みる。「お互いに渡世人同士じゃないか,こっちの気持ちもわかるだろう」「あの子(風子)は苦労して育ったからな,どこか無理しているところがある。やくざな女に見えるけど,本当はそうじゃない,まともな娘だ,所帯をもって,子どもを生んで,幸せになれる娘だ,そう思わねえか」トニーは言った。「二十歳の若造ではありませんからね,それぐらいのことはわかっています,だけどね,東京についていくといったのは,あの子の方なんですよ」寅次郎は謝った。「だからこそ,こうして頭を下げて頼んでいるじゃねえか,頼む,この通りだ。」トニーはニヤリとして捨てぜりふを吐いた。「アニさん,見かけによらず,純情ですね,ジャ,ゴメンナスッテ」その場に立ち尽くした寅次郎は,静かに頭を垂れるだけだった。
この時,映画「男はつらいよ」シリーズは終わったのだ,と私は思う。テレビ時代から車寅次郎が売りにしていた「柄の悪さ」「品のなさ」は,トニーという渡世人(渡瀬恒彦)の登場によってもののみごとに粉砕されてしまっていたのである。
とらやでの風子との悲しい結末は,そのだめ押しに過ぎなかった。
筋書きは,例によって健全路線に修正し,風子の結婚式へと進む。北海道・養老牛温泉で行われた式場近くの森の中で,熊も登場するスラップ・ステップ・コメディ風に大団円となる。
それにしてもトニーという渡世人はどこへってしまったのだろうか。渡瀬恒彦の演技は森川信と肩を並べるほどの風格をもっていた。映画「男はつらいよ」シリーズに登場する人物の中で,トニーほど「影」のある,崩れた,破れかぶれのキャラクターは存在しなかったのではないか。例の任侠映画の人物がいきなり登場してきたようなものであった。だからこそ「男はつらいよ・霧にむせぶ寅次郎」は秀逸なのである。映画のシリーズの中では,紅京子(木の実ナナ),リリー(浅丘ルリ子),ぼたん(太地喜和子)など,寅次郎と同類の人物も登場していたが,彼の「柄の悪さ」「品のなさ」を,ある種の風格まで昇華させることができた役者は皆無だった。さらに風子とトニーという渡世人の登場によって,車寅次郎の風格は見るも無惨に引きずりおろされたのである。 しかし,映画「男はつらいよ」シリーズの製作関係者は,そのことに気がつかなかった。だから,もう出る幕のない車寅次郎を,延々と,俳優・渥美清の寿命が尽きるまで,退屈な舞台に登場し続けさせたのである。合掌。(2003.5.7)
第33作 『男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎』 予告篇
「男はつらいよ」名言集・名シーン総集編/第1作〜第48作/昭和44年〜平成7年/「シネマプロムナード 」 クラシック映画チャンネル
テレビで放映された映画「聲の形」(監督・山田尚子・2016年)をDVDに収録、鑑賞した。このアニメーションはウィキペディア百科事典では、以下のように紹介されている。
〈『映画 聲の形』は、京都アニメーション制作の長編アニメーション映画。2016年公開。監督は山田尚子。原作は大今良時による漫画『聲の形』。第40回日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞、第26回日本映画批評家大賞アニメーション部門作品賞、第20回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞、東京アニメアワードフェスティバル2017アニメ オブ ザ イヤー作品賞 劇場映画部門グランプリ受賞作。文部科学省タイアップ作品。主人公の石田将也と先天性の聴覚障害を持つ西宮硝子を中心に、人と人との繋がりやディスコミュニケーションを描く。キャッチコピーは、「君に生きるのを手伝ってほしい」〉
多くの老若男女が「感動した」というレビューを寄せているので、期待して観たのだが・・・。後期高齢者となった私自身には、「よくわからない」(今どきの若者の心情とは断絶している)というのが率直な感想である。
小学校時代の場面が描かれていたが、そこに登場する学級担任、「聞こえの教室」(難聴学級)担当、校長等の教師群に全くの《生気》が感じられない。西宮硝子が6年のクラスに転入・紹介する(出会いの最も重要な)場面で、学級担任は「ただ事務的に」接するだけで、事前の準備や配慮が全く行われていない。「聞こえの教室」担当も、硝子に対する「聴覚(治療)教育」を行うべき立場にありながら、学級児童に「手話」を勧める始末、校長に至っては、硝子の補聴器が8台も壊され170万円もかかったという母親からのクレームを「学級会で紹介するだけ」、教育公務員としての責務を全く果たしていない。これが荒廃した現在の学校だと思うと、開いた口がふさがらなかった。
さて、肝心の主人公・石田将也、西宮硝子の「心情」もよくわからない。「虐める」から「虐められる」という立場に変わって、孤立。孤独感が恐怖感に変わったことを、登場人物の顔に✖印をつけることで、将也の心情を表現しようとしたようだが、あまりにも「マンガチック」で噴出してしまった。アニメ表現もここまで「デジタル化」したか!
また、将也は硝子と「手話」でやりとりができるようになったが、彼女の「口話」(音声言語)を《耳が聞こえているにもかかわらず》理解できない。感情が高ぶった時、どうしても相手に伝えようとしたい時、思わず「声が出てしまう」のが自然である。だから「手話」だけに頼っていては、相互の「心情の交流」は難しいのだ。まず声で、次にサイン(表情、ジェスチャー、手話・指文字)で、というのがコミュニケーションのイロハである。
さらに、石田将也、西宮硝子の「親子関係」「家庭環境」も判然としなかった。ともに父親不在(シングルマザー?)、母親は放任型?、溺愛型?、将也の孤独感、自殺決行までその気配に気づかない。硝子には妹がいるが、不登校で家出の常習。硝子が補聴器を壊されても170万円になるまで放っておくとは・・・。いずれにせよ、昔の「親心」「母性本能」とは無縁のように感じられた。
要するに、登場人物すべてが「ドライ」(乾いている)のである。登場人物だけではない。映画製作スタッフもまた・・・、もしこの映画を通して「聴覚障害」の女性も含めた青春群像を描こうとするなら、当然、聴覚障害の観客・視聴者がいることも想定するはずである。しかし、画面に「✖」という記号は貼り付けられてはいたものの、セリフを視覚化した「字幕」を見出すことはできなかった。登場人物の西宮硝子同様に、画面だけでストーリーを想像する他はなかったのではないだろうか。
世界に誇る「京都アニメーション」の作品としては、あまりにも《乾きすぎている》、と私は思った。 (2020.8.3)
声之形 剧场版