五味川純平は、それを裏打ちするものとして、マルサス主義と「大アジア主義」をあげている。
〈日本の国土は狭く資源は貧しい。しかも人口は多い。このまま進んだら日本民族はほろんでしまう。滅亡がいやなら外に向かって進出するほかはない。(略)満州を中国から取りあげて日本将来の発展に備えることの、一体どこが悪いのか?優勝劣敗は天の配済だ。そして資本主義列強もみな、今も昔も、同じことをやっていたではないか・・・・。これは一種のマルサス主義、社会ダーウィン主義であるに違いない。それは、たしかにわれわれ大衆が日常見聞している経験的事実に合致している側面をもっている。(略)中国侵略を合理化する思想としてマルサス主義を一つの支柱とすれば、もう一つの支柱が「大アジア主義」ではないか。(略)アジアを白色人種の帝国主義から解放するためには、とくに「同文同種」の日中両国民が固く手を握り、日本を盟主としてアジアが一つに団結する必要があると説く。これもまた欧米列強のアジア侵略という現実の一面をとらえたかぎりにおいて、そして肌の色にはきわめて敏感である日本人にピッタリくるような人種主義理論を借りて欧米帝国主義のへの引き出した点において、大衆的な説得性をもっている。〉(前出・33頁)
それではいったい、何故にそうした支配者のイデオロギー(マルサス主義、「大アジア主義」)を、人々は説得性のあるものとして受け止め得たのであろうか。それは多分に彼らの生活形態によっている。五味川はその具体的なものとして軍隊(生活)をあげている。
〈軍隊体験とは違う意味と内容をもつ一般的な戦争体験が、そういうものとしては成立しにくいのではないだろうか。軍隊が日本の政治と経済の圧倒的大部分を吸いとってしまったのと同じ具合に、軍隊が日本人の思想と意識・感覚をも吸収してしまい、それらの一切に日本軍隊の刻印を押しつけてしまったのではないか。(略)戦争そのものと軍隊とは明らかに別の二つのものであるに相違ないのに、この二つはいつしかピッタリと重なってしまう。〉(前出・44頁)
私はそうしたことをより明確なものとするためには、人々の生活形態に規定されてくるところの、日本人としての精神構造・意識構造を切開しなければならないと思う。
絶対的な天皇制権力機構の中で、人々はどのような生活意識をもっていたのであろうか。日高六郎は、その生活意識を《国体観念》と《順風美俗》の二要素に分析し、それらを明確に規定している。
〈「旧意識」は、いわば「上からの」旧意識と「下からの」旧意識を、その構成要素としてふくむものであった。「上からの」旧意識は空間的には八紘一宇にまで広がり時間的には天壌無窮の永遠性をたもつ一君萬民の国体観念であり、その心理的核心は神格化された天皇にたいする絶対従順と家父長化された天皇に対する《赤子》の情(「義は君臣・情は父子」)であった。(略)いっぽう「下からの」旧意識は、典型的には封建的な閉鎖的村落のなかで固定化された村秩序意識と家父長家族主義であり、それは習俗としての《醇風美俗》へと行動様式化されるものであった。〉(『日本資本主義講座』・Ⅸ・岩波書店・173頁)