梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

新型コロナ「2類相当から5類へ」の《根拠》

 政府は「新型コロナウィルス感染症」の位置づけを「2類相当」から「5類」に引き下げることを決定した。その根拠は何か。
 私はこれまで厚生労働省ホームページで示される数値をエクセル入力して、「陽性者数」「入院治療を要する者の数」「重症者数」「一日当たりの新規死者数」の推移を見てきた。そのグラフは以下の通りである。

 上のグラフからわかることは、①「陽性者は依然として増え続けている」、②「入院治療を要する者は、第7波が最多だったが減少の傾向が見える」、③「重症者は第5波の時最多であったが以後は減少の傾向である」、④「一日当たりの新規数死者数は第5波まではピークが200人未満であったが、第6波、第7波は200人を超え、第8波では400人を超える勢いである」、ということだ。
 つまり、入院治療を必要とする者、重症者は、この3年間で減っているが、感染者(陽性者)、死者は《依然として増え続けている》ことがわかる。
 そのような現状なのに、政府がこの感染症の位置づけを「2類相当」から「5類」に引き下げるのはなぜか。そのことによって、感染者を減らすことができるのか。また、そのことによって新規死者数は減少するのか。
 世論は63%が「5類引き下げ」に賛成だそうだが、政府、専門家にはその《根拠》を明らかにする責務がある、と私は思う。
(2023.1.30)

二葉あき子の《歌唱力》


 二葉あき子の歌を聴いたことがあるだろうか。私が初めて彼女の歌を聴いたのは「夜のプラットホーム」(奥野椰子夫作詩・服部良一作曲・昭和21年)であった。昭和26年2月,当時6歳だった私は,父と祖母に連れられ,住み慣れた静岡から東京に向かうことになった。静岡には母の実家があった。満州で生まれた私は,すぐに母を亡くし,入隊した父とも別れ,父の友人一家の助力で命からがら日本に引き揚げてきたらしい。母方の祖母が営む下宿屋には,東京から疎開してきた父方の祖母も身を寄せており,しばらくはそこで暮らすことになったようだ。やがて父も引き揚げ,私自身が学齢になったので父の勤務地である東京に,父方の祖母ともども呼び寄せられたのである。静岡駅で東京行きの列車を待っていると,下りのホームにアメリカ兵が鈴なりになって乗っている列車が入ってきた。彼らは,上りのホームで待っている私たちに向かい,大きな叫び声をあげながらチョコレート,キャラメル,チューインガム,ヌガーなどの高価な菓子類を,雨あられのように投げてよこした。上りホームの日本人たちも,歓声をあげて一つでも多く拾おうとする。見送りに来た親類の一人が,ヌガーを一つ拾ってくれた。東京行きの列車の中で,それを食べたが,その豪華な味が忘れられない。甘いものといえばふかし芋,カルメ焼きぐらいしかたべたことがなかった。チョコレートでくるまれた生クリームの中にピーナツがふんだんに入った,贅沢な逸品であった。アメリカ人はなんて優雅なくらしをしているのだろう,子ども心にそう思ったのを今でも憶えている。
列車が東京に近づく頃は,もう夜だった。横浜を過ぎた頃,車掌がやって来て,「東京駅構内で事故が発生しました。この列車は品川止まりになります」という。乗客には不安が走った。今日のうちに目的地まで行き着くことができるだろうか。降り立った品川駅のホームはトンネルのように暗かった。「シナガワー,シナガワー,ケイヒントーホクセン,ヤマノテセン,ノリカエー」という単調なスピーカーの声とともに,厳冬の夜,凍てつく寒気の中に柱の裸電球が一つ,頼りなげに灯っていた情景が瞼にに焼きついている。
二葉あき子の「夜のプラットホーム」を聴くと,あの品川駅での情景がきのうのことのように甦ってくるのである。なぜだろうか。それは,彼女がおのれを殺して,全精力を歌心(曲想)に傾けて表現するという,たぐいまれな歌唱力を身につけているからだと思う。「星は瞬く,夜深く,鳴りわたる,鳴りわたる,プラットホームの別れのベルよ」という彼女の歌声を聞いて,私は「本当にそうだった」と思う。6歳の私が初めて見た「夜のプラットホーム」は品川駅をおいて他にないのだから。「さようなら,さようなら,君いつ帰る」とは,静岡駅で私を送り出してくれた,心やさしき人々の言葉に他ならなかった。もしかしたら朝鮮戦争に赴くアメリカ兵の言葉だったかもしれない。本来,この歌は戦前,若い出征兵士を見送る,東京駅の情景を見て作られたという。「いつまでも,いつまでも,柱に寄り添い,たたずむ私」という恋人や新妻の気持ちがどのようなものだったか。戦争とは無縁であった私ですら,あの心細い品川駅での情景を思い出すくらいだから,戦死した夫や恋人を追憶する女性の寂寥感は想像に難くない。彼女が大切にしているのは,歌手としての自分の個性ではなく,作詩・作曲者が創り出した作品そのものの個性である,と私は思う。いわゆる「二葉あき子節」など断じて存在しない。彼女が歌う曲は,クラッシックの小品,ブルース,ルンバ,シャンソン,映画主題歌,童謡,軍歌,音頭,デュエットにいたるまでとレパートリーは広く,多種多様である。しかも,その作品ごとに,彼女の歌声は「千変万化」するのである。作品を聴いただけでは,彼女の歌声だとは判別できないものもある。ためしに,「古き花園」(サトウハチロー作詩・早乙女光作曲・昭和14年)「お島千太郎旅唄」(西条八十作詩・奥山貞吉作曲・昭和15年)「めんこい仔馬」(サトウハチロー作詩・仁木他喜雄作曲・昭和15年)「フランチェスカの鐘」(菊田一夫作詩・古関裕而作曲・昭和23年)「水色のワルツ」(藤浦洸作詩・高木東六作曲・昭和25年)などを聴き比べてみれば,わかる。
「フランチェスカの鐘」は,もともと失恋した成人女性の恨み歌であったが,後年,二葉あき子は初老を迎えた自らの変声を生かし,故郷の被爆地・広島で犠牲になった人々への鎮魂歌として創り変えている。(LPレコード「フランチェスカの鐘・二葉あき子 うたのこころ・昭和42年)                 
私は彼女の歌を聴いただけで,誰が,どこで,何をしながら,どんな気持ちで,何を訴えたいかをストレートに感じとることができる。彼女の歌唱力は,曲の舞台を表現する。登場人物の表情・心象を表現する。そして,情景を構成する気象,風景,星,草花,ハンカチーフまでも表現してしまうのである。
 いつになっても,作品の中の彼女の声は澄みきっている。二葉あき子の地声ではなく,作詩者,作曲者が思い描いた歌手の声,登場人物の声に徹しようと努めているからである。流行歌は三分間のドラマだといわれるが,彼女ほどそのドラマを誠実に,没個性的に演じ分けた歌手はいないだろう。それが他ならぬ二葉あき子の「個性」であり,「今世紀不世出の歌手」といっても過言ではない,と私は思う。(2004.5.15)

尾身茂会長のインタビュー

 1月13日夜のNHKニュース番組で「尾身会長に聞く」というインタビューが放映された。コロナ感染から1か月後、尾身会長は「突然」姿を現したことになる。私は昨年12月末に「おそらく「重症化」することなく「軽快」しただろうと想像はできるが、報道関係者も沈黙を続けているのはなぜか。」と書いたが、その想像は当たったということになる。しかも、そのインタビューでは、尾身会長自身のコロナ感染について、いっさい触れることはなかった。まるでそんな事実はなかったかのように彼は振るまい、インタビュアーもまた、あえて問いただすことはなかった。なぜだろうか。そんなことはどうでもよいことだと言うのか。尾身会長は、まず、感染対策のリーダーであるにもかかわらず、自らが感染してしまったことを「反省」し、その感染経路、症状の程度、療養の実際、回復までの経過について明らかにしなければならない「立場」にあるはずだ。また、NHKにも、そうした情報を報道する義務があると思われるが、あえてそのこを追求しなかったのはなぜか。まさか「個人情報に関することだから」という理由でもあるまいに・・・。
 インタビューは90分にわたって行われたが、その内容のほとんどは「すでに伝えられている」ことばかりの繰り返しで、何の参考にもならなかった。
 そもそも尾身会長は、コロナ感染に関する様々な見解を「包括的に説明」するだけで、専門家としての見識に乏しく、感染対策の先頭に立つべき資質に欠けているのではないか。混迷はいつまでも続く、と私は思う。
(2023.1.14)