梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

私の戦後70年・中学校入学式

 昭和32年4月、私は「学区外」の中学校に入学した。入学式は校庭で行われ、担任が新入生を一人一人、呼名する、呼ばれた生徒は「ハイ」と叫んで起立する。順番が回り、私も返事をして起立、不動の姿勢をとったが、その直後に「笑い声」が上がった。「コウタロウ」という名前が古めかしく、時代遅れだったからであろう。私は恥ずかしくて顔をあげられなかった。しかし、呼名は次々と進められる中、また「笑い声」が上がった。その名は「・・・デンジロウ」、さらにまた、しばらくして「・・・トラノスケ」、湧き上がる「笑い声」を聞きながら、私は心中で「自分だけではなかった」と安堵した。入学して半月後、私は陸上競技部に入部した。一年の新入部員は男子三人だけ、顔合わせをして驚いた。なんと、あの時のデンジロウ君、トラノスケ君、そしてコウタロウの私が「勢揃い」していたのである。(2015.4.19)

私の戦後70年・学区外通学

 昭和27年の大晦日に祖母を亡くし、父と私は文字通り「父子家庭」の生活を始めた。 申し込んでいた公団住宅が当たったので、これまでの間借生活は終了、他区に新築された鉄筋コンクリート4階建ての公団住宅に転居した。小学校3年生の時である。当然、転校しなければならないが、父は担任の先生に頼み込み、特別に「学区外通学」が許可された。通学時間は1時間に延長、バス通学を余儀なくされた。しかし「これまでの友だちと別れずにすむ」と思うと、少しも苦にならなかった。混雑するバスへの乗り降りもスムーズにできるようになった。この「学区外通学」は、中学校までも延長された。通学時間はさらに延長したが、竹馬の友と同じ学校に進学できることは私にとって望外の喜び、小学校、中学校、区教育委員会の異例な計らいに感謝している。今思えば、父と私の「父子家庭」自体が「異例」だったための「特例」かもしれない。(2015.4.18)

私の戦後70年・メガネ

 小学校入学時から私の視力は弱かったが、四年生の頃から黒板の字が見えなくなった。メガネをかけたいと思ったが、恥ずかしくて言い出すことができなかった。クラスの誰ひとりメガネを装用していない。学校の視力検査でも「見えない」ことを隠したい。私は順番がくるまでに検査表の文字列を必死で憶えた。「コ・ナ・ル・カ・ロ・フ・ニ・レ・コ・ヒ」。五年生までは何とかごまかせたが、六年生では叶わなかった。検査後、担任の先生は「この組で一番目が悪いのはコウタロウ君!」と公表した。その時は恥ずかしさと悔しさで唇を噛んだが、今思えば「早くメガネをかけて、楽になりなさい」という温かい配慮であったのだろう。父も「そんなに悪いとは思わなかった。このまま度が進むと失明するかも知れない」と嘆いた。かくて、私はクラスでメガネをかける「一番乗り」となった。私が一番になったのは、後にも先にも、この時をおいて他にない。(2015.4.17)