梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「性加害」の《本質》

 吉本芸人Mの「性加害」という問題が取り沙汰されて2か月が経とうとしているが、その《本質》が忘れられたまま、不毛な対立・抗争が続けられている。「性加害」の《本質》とは何か。それを明らかにするためには、まず「性」とは何かについて考えることが必要だ。「性」とは「男と女」という区別であり、「性行為」とは男女が「結合」することである。その「結合」には、両者の「同意」が不可欠で、両者が同意することによってはじめて両者の「快感」「喜び」が保証されることになる。男女の「結合」は、男は「する」、女は「される」という形をとるが、もし女が「される」ことに「快感」「喜び」を感じなかった場合、必然的に男の側に「性加害」という問題が生じることになる。「される」側の女が、「する」側の男に「性加害」を加えるということは、特別な場合(性倒錯)を除いて、まず考えられない。
 したがって、吉本芸人M(男)と「性行為」を行った女が「快感」「喜び」を感じなかったとすれば、その段階ですでにMの「性加害」は成立してしまうのである。Mは、何のために複数の女たちと「性行為」を行ったのだろうか。「快感」「喜び」を分かち合うためではなかったのか。自分だけの「快感」「喜び」が得られればそれでよかったのか。Mと「性行為」を行った複数の女たちが「不快感」を訴えているとすれば、Mの抗弁は成り立たない。
 「週刊文春」がそうした証言を列挙しているのだから、Mがもしそれを否定するのなら「Mさん、ありがとう」と感謝する女たちの証言を、それ以上に示す必要があるだろう。
 いずれにせよ、「性加害」があったかどうかを決めるのは、男ではなく《女》の側だということを 私たちは忘れてはならない。それが「性加害」の《本質》なのである。
(2024.2.21)