梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症児」の育て方(7) 「笑顔」のやりとり

7 「自閉症児」の育て方・5・《「笑顔」のやりとり》
 新生児は2カ月頃になると(あるいはそれ以前でも)、「一人で微笑んでいる」ことがある。親は、その「微笑み」を見逃してはならない。「笑った、笑った」などと言いながら、頬をなでたり、軽く突っついたり、息を吹きかけたりして、新生児自身が「今、笑っていること」に気づかせなければならない。当然、親もまた、微笑んでいる。しかし、新生児は、まだその「微笑み」をハッキリと見分けることはできない。新生児の視力は、0.01~0.02、明暗の区別ができる程度だが、次第に「色の区別」もできるようになり、3カ月では「形の弁別」、6カ月で0.1程度になるといわれている。したがって、親が笑いかけて「笑い返す」ことができるようになるためには、少なくとも半年以上の時間が必要である。
 「泣く」ことは「親を呼ぶ」「不快感を表現」する手段だが、一方。「笑う」ことは「快感の表現」であり、親と「喜び」を分かち合う手段である。授乳後などの「満足感」、オムツ交換後の「爽快感」、あるいは、抱かれることの「安心感」などを感じている時に、乳児の「微笑み」が頻繁に現れるようになる。親は「そうなの、美味しいの」「さっぱりしたねえ」「うれしいの」「気持ちがいいの」などと、子どもに話しかけなければならない。子どもは、それに応えるかのように「アー、ウー」「オックン」などと(泣き声以外の)「声」を出す。いわゆる「喃語」である。すでに、もう親子の(声による)「対話」が始まっているのである。その対話を通して、子どもは「安定」し、親は「喜び」をかみしめる。
 新生児の視力に比べて、聴力は「敏感」である。胎内でも聴覚は働いており、生後まもなくは70デシベル程度、8か月後には大人の正常値と変わらなくなる。大きな音がすると「泣き出す」、普通の音(人の足音、ドアの開閉音、玄関のチャイム、電話の呼び出し音など)でも、「瞼をピクッとさせる(まばたき)」「手足を動かす」といった「反射」があり、また、6か月を過ぎると、音源を探そうとする「詮索反応」が確実になる。
 したがって、新生児・乳児と「笑顔のやりとり」をするためには、まず「声かけ」が必要であり、それを手がかりとしながら、子どもの「視力」を確かなものにしていくことが大切である。親は、子どもの顔をしっかりと見つめ、「にらめっこ」のようにして「視線を合わせ」なければならない。子どもが「どこを見ているか」を観察し、その視線の方向に自分の顔を合わせなければならない。視線が合った(と思われた)ら微笑まなければならない。「そうなの、ママが見えたの」「私がママよ」などと言いながら(歌いながら)、撫でたり、摩ったり、抱き上げたり、キスしたりしながら、その「やりとり」を楽しまなければならない。そのような「繰り返し」を重ねるうちに、子どももまた「微笑む」ようになる。「微笑み」は強化され、「笑い声を上げる」ようになる。「キャッ、キャッ」と言って、手足を振りまわすようになる。やがて、親の声を聞いただけで、親の姿を見ただけで、(自分から・自発的に)「笑顔」を見せるようになる。
 「自閉症児」(と呼ばれる子ども)の場合、①「微笑み」が見られなかった、②視線が合わない、③「笑い声を出さない」、④笑いかけても「無反応」、といった特徴が見られるかもしれない。その「特徴」は《いつから始まったか》を見極めることが重要である。もし、「新生児の早い時期から」だとすれば、《聴覚過敏》が疑われる。周囲の物音の刺激が強すぎて、つねに「不快感」が続いており、それが「視力」(明暗、色、形を見分ける)の発達を妨げ、「親と視線を合わせること」(自発的な学習)を遅らせたかもしれない。それ以外にも、新生児期の様々な「生理的要因」が影響しているかもしれない。いずれにせよ、「自閉症」の《本態》が、「人に対する関心、かかわりの乏しさ」だとすれば、その発症の原点が、新生児期から1年間(満1歳まで)の間に「隠されている」と、私は思うのである。また、親は、これまで述べた「~しなければならない」ということを、着実・十分に行ってきたかを振り返る必要がある。もし、それが不十分であったとすれば、以上の「特徴」は《当然の結果》ということになる。蛇足だが、最近、電車の中で見た光景。若い夫婦が乳児をベビーカーに乗せて、優先席に座っている。乳児は、手にした哺乳びんの底を吸っている。何度も、何度も吸っているが、ミルクは出てこない。哺乳びんを持ちかえて、また吸ってみるが出てこない。乳児は両親の方に目をやったが、親は親同士、互いのスマホを見せ合って笑っている。乳児は、やむなく(泣く出すこともなく)、また哺乳びんの底にしゃぶりつく。すでにこの段階から「親子のコミュニケーション」は断絶している。それが親側の一方的な「都合」によるものであることは明白であろう。なるほど、これが「現代の育児法」(の典型)だとすれば、「発達障害児」(と呼ばれる子どもたち)が「激増」してもおかしくない。乳児の今、そして将来を思うと、言葉が見つからない。暗澹とした気持ちで、その電車を降りる他はなかった、という次第である。(2015.1.10)