梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・53

■聴力
【要約】
 談話を聞く場合、談話の全体が必ずしも遺漏なく聞きとれるということはなく、また、つねにそうである必要もない。その理由の一つは、談話の行われる状況、談話そのものの置かれている文脈、あるいは広い知識・経験などが、聴取欠損部を補うのに役立つということにある。この種の推定ないし補間のほかに、談話を構成する音声の連鎖パターンからの推定ないし補間も役立っている。
 その言語に熟達している成人では、欠損した音声は、その前後にある音声あるいは音声パターンを手がかりに、充たされるべき音声を高い確率で推定できることが少なくない。この種の推定の過程は。知覚水準で、自動的・無意識・即時的に生じることが多いのである。われわれは日常、談話の音声そのものに注意せず、その意味だけを“聞く”。談話の認知では、音声は“透明”である。
 しかし、不慣れな言語による談話を聞く場合には、事情は一変する。われわれは聴き取りにくさを感じる。音声は小さすぎ、速すぎ、不明瞭に感じられる。この場合は音声は“不透明”である。一つの音声の聞きおとしは、そこでは談話の理解を全面的に妨げることが少なくない。これと類似した事情が、母国語の経験の浅い幼児には起こっていると考えられる。成人ならば聴取に支障のない強さの音声以上の強さのものが彼らにとっては必要であり、成人では十分である聴力が、彼らでは不十分であるかもしれない。音声刺激に対する認知力は、その聞き手にとって、その音声が信号的意味をもつときには、いちじるしく増大し、信号的意味をもたないときは、きわめて低いであろう。談話ないし語を聴くためには、その構成分となっている音声を識別することが必要であるが、さらに音声を容易に識別するために、談話ないし語が信号的意味をもつということが大きな助けになるであろう。 
 このようなわけで、幼児が幼いほど、感覚次元で測られた聴力が正常であるにもかかわらず、難聴的な現象が生じる場合もよく起こるはずである。幼い子どもに必要な聴力は感覚次元ではなく、知覚次元の聴力であるといってもよい。知覚次元に対応する感覚次元の修正を必要とする。事実、現代の聴能学では、聴覚閾と談話聴取能力との関係は、難聴児では大きな個人差があることがみいだされている(Carhart,1946;Hirsh,1951)。


【感想】
 ここでは、自閉症児の「言語発達」を考えるうえで、きわめて重要なことが述べられていると、私は思った。
 ここでいう「聴力」とは、感覚次元で測られた聴力(感度・どれくらい小さい音まで聞こえるか)ではなく、知覚次元の聴力である。「聞く力」には①感度(聴力)、②弁別力(音を聞き分ける力)、③記銘力(聞いて憶える力)、④分析力(音のかたまりを分析する力)、⑤統合力(断片的な音を統合する力)、⑥構成力(不完全な音を修正する力)、⑦聴解力(文章を聞いて理解する力)の過程があるといわれている。
 自閉症児の場合、聴覚過敏があるために(感度の異常があるために)、以後の過程が順調に発達しにくいということが考えられるが、本人の体験記録などを読むと、「ことばは聞こえるが、その意味が理解できない」というような記述がみられる。東田直樹氏の著述にも「母の言葉がいちばんわかりやすい」と書かれてあった。
 その状態は、私たちが「外国語」に接した場合と同じではないだろうか。外国人が話をしていることはわかるが、意味は不明である。なぜだろうか。それは、外国語を日常生活の中で「聞く」という経験が極端に少ないためではないだろうか、と私は思う。とりわけ、外国語で「やりとり」をする機会は皆無に等しいだろう。
 自閉症児の場合も同様に、「声」や「音声言語」で《やりとり》をする経験が、極端に少なかった、ということはないか。一般には「大脳の言語野、聴覚野など」の問題と考えられているが、その定説からは、解決策は生まれない。せいぜい「マカトン・サイン」など視覚的手段に依存するほかはないのが現状なのである。
(2018.7.9)