梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・30

■指示
【要約】
 対象そのものの絵画化を伴わない象徴的身振りの典型的なものとして、指示行為をあげることができる。単に対象に手を伸ばす動作、あるいは注視と到達行為との協応が開始されるのは0:3~0:5であり、比較的個人差はない。はっきり指示の徴候が認められるの行為は0:10~0:11にはじまり、その時期にはかなり個人差がある。しかもそこには到達行為と区別しがたいものがふくまれているのである(Leopold,1949)。指示という行為には対象の表示の機能が認められ、身振りの一つの原型として、注目すべきいくつかの特性がある。
《指示・到達・把握》
 指示の個体発生的母胎を把握ないし到達の行為に求める見解は古くからある(Wundt,1912)。ブラウン(Brown,1958)は、指示行為は到達行為および把握の短縮化であり、はじめは欲求充足のための直接行動であるが、この行為をしている最中に育児者が子どもの欲しがっている物を与えることによって、到達・把握の行為が表示を意図する指示行為に変わるのだという。
 レベス(Revesz,1956)は、乳児は母親に対して両腕を伸ばすことによって、早く上手に抱かれることができるということを何度か経験するうちに、両腕を伸ばす大げさな動作は次第に縮小され、ついには指示動作が生じるようになる、と述べている。
 この種の見解をとる研究者の大部分は、指示動作は単純な試行錯誤を通じて習得される道具的行動だとみている。
《霊長類動物の“指示”行為》
 クロウフォード(Crawford,1937)の実験的調査からわかったことは、チンパンジーは“何かしてくれ”という促しはできるし、その促しに応じることもできるが、“何を”ということは示そうとしないし、知ろうともしない、指示という機能に対して彼らは無縁である、ということであった。
 川村の観察報告(川村,1965)によれば、ニホンザルは、毛づくろいをうける側の個体が受けるべき身体の部位を相手の方にもっていく、という直接的(おおざっぱな)指示行動をする場合がある。母親がアカンボウをにのせる場合、片手で自分の背の後方(アカンボウがおぶさる位置)をかるくさわったこともあった。この指示は間接的であり、指さし行動といえる。しかし、その指し示す末端が自分の身体上にあった点で、遠方を指さすヒトの行動とは異なっている。
《人間の指示行為》
 人間の指示の第一の特徴は、手のとどかない遠方を指すことである。そして、それは人間以外にはまったく見当たらない。
 ウェルナーとカプラン(Werner and Kaplan,1963)は、動物の示す類似行動は、機能的には把握と等価であり、“とりこみ”であるのに対して、人間の指示行為は“さし向け”であり、自己から離れて存在するものを静観し認容する態度に基づいており、それが二次的に欲求充足の手段となるにすぎないという。ウェルナーらはまた、到達は把握と指示との中間に位するものであって、欲求充足に動機づけられる面と、対象の認容の面とを兼ねているという。
 ウェルナーらの見解は、指示行動もふくめたすべての象徴行動は人間独自のものであり、
これは生得的に人間に備わった性質であるとの考えを出発点にしている。しかし、指示行為が育児者を中心とする子どもの周囲の人によって示され、これを子どもが模倣するという経験的要因を無視することはできない。人間社会の外で育てられた子どもに指示行為が出現した例はみない(Brown,1958;Itard,1958:Mason,1942;Singh and Zingg,1942)。
《指示の理解》
 人間幼児は、2歳未満でもすでに、指示行為を外的事象に対する表示として理解し、指に対してそれがさし示す方向に対象を探すことができる。(イヌやチンパンジーは指を注視するにすぎない)
 このように、“さすもの”と“さされるもの”との分化は、代表過程に共通の機能であり、このような理解を基礎として生じる象徴行動が子ども自身の行う指示行為である。築島は指示行為が命名と同類の機能であるとして、つぎのように述べている。
 “指さすということは、一つの対象を当座の事態全体からひきはなして、それとしての客観的・自立的存在を明示することである。・・・指さすという働きと命名の働きとは同類のものということができる。本質的に結合した働きである。指さしはことばではないが、命名のなかには必ず指さしの機能つまり指示の機能があるのである”(築島,1959)。
 ルイア(Luria,1961)は、指示行動の理解は言語的命名の訓練を通じて獲得され、これが知覚に本質的な変容をもたらすとともに、子ども自身に指示行為を行わせるようにすると述べる。たとえばCup!といいながら母親が子どもにコップを指示してみせるとき、指示動作と対象の名との関係づけが子どもの側に生じ、子どもの知覚体験がこの種の指示ー命名によって質的変化を起こす。子どもが母親の指先を見ず、その指のさし示す方向を見ることができるのは、Cupという言語刺激を伴わすからである、という。
 ルリアの見解では、はじめに指示行為が生じ、それが言語的な表示へと発展するとは考えず、逆に言語的命名を指示行動と結合してやる訓練を通じて、子どもははじめて指示行動の指示性を理解し、やがて自らこれを行うようになるのだと考える。人間における指示行為の個体発生の解明は、言語発達の基本問題の一つであるが、指示行為を言語的表示の一つの足がかりとみるか、それとも言語的訓練の成果とみるべきかについての結論を出すのは今後の課題である。


【感想】
 自閉症児と呼ばれる子どもたちが、1歳半健診で「指さしをしない」と指摘されるケースは少なくないだろう。一方、そう呼ばれない子どもたちは、生後8ヶ月を過ぎるとほとんどが「指さし」をしている。その違いは何によって生じるのだろうか。 
 8ヶ月以降のの「指さし」は、周囲の事物から一つを取り出して(特定して)「注目する」、そして誰かに「知らせる」という行為であり、1歳半健診における「指さし」は、「ワンワンはどれ?」などという質問に答える行為である。両者には「表現」と「理解」の違いはあるが、いずれも言語的コミュニケーションの土台であり、きわめて重要な意味があることはたしかである。
 自閉症児の場合、その土台が不十分であると考えられるが、著者は以下のように述べている。
〈ウェルナーらの見解は、指示行動もふくめたすべての象徴行動は人間独自のものであり、これは生得的に人間に備わった性質であるとの考えを出発点にしている。しかし、指示行為が育児者を中心とする子どもの周囲の人によって示され、これを子どもが模倣するという経験的要因を無視することはできない。人間社会の外で育てられた子どもに指示行為が出現した例はみない(Brown,1958;Itard,1958:Mason,1942;Singh and Zingg,1942)。〉
 「指さし」は「生得的に人間に備わった性質であるとの考え」よりも「育児者を中心とする子どもの周囲の人によって示され、これを子どもが模倣する」という考えを無視できないということである。
 したがって、自閉症児の育児者(両親・家族)は、「指さし」という行為を示したか、という点がきわめて重要である。①「指さし」という行為を頻繁に示して見せた。しかし子どもはそれを模倣しなかった。②「指さし」という行為を示さなかった。だから、子どもは「指さし」の意味を理解できず、模倣もしなかった。③「指さし」の代わりに「音声」、あるいは他の手段(たとえば実物、たとえば絵、たとえば文字)を使った。だから、子どもは「指さし」ではなく「音声」を模倣した。
 などのいずれかについて、明らかにする必要があると私は思う。「人間社会の外で育てられた子どもに指示行為が出現した例はみない」という一文は衝撃的である。自閉症児は、人間社会の中で育てられているにもかかわらず、結果としては、外で育てられたことと同じ状態が生じているのだから・・・。(2018.5.4)