梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・38

3 音声模倣
【要約】
 言語習得がとりわけ音声模倣に依存していることはいうまでもない。言語発達が学習現象であるといわれるおもな理由の一つは、それが音声模倣を経てはじめて達成されるというところにある。
 擬音あるいは擬声(オノマトペ)もまた、一種の模倣音声であるが、言語的ではない点で、言語的な模倣音声と区別され、この両者の発達的な連関を調べることは興味がある。
 最後に、音声を用いる初期象徴行動の二、三のあらわれをとり上げ、模倣を一歩こえたこれらの行動が、その後の言語発達にどのように関係してくるかを示唆したい。


6 音声模倣
 ここでは、音声模倣の発達を、精神機能の諸面と関係づけて考察し、さらに、音声模倣の習得機制についての現代の主要な見解を概観し、最後に、音声模倣とその自発的使用との発達的な関連の問題をとり上げる。
 まず、音声の類似性の問題を検討する。
■“類似性”の基準
《“類似”の諸側面》
◎“類似している”ということを、何を基準にして考えるか、その類似の程度をどのようにして決定するか 
 音素面、音調、リズム、音色などが類似性の基準になる。従来の研究の多くは、これらの種々の基準の一つ一つについての検討が十分ではなく、音声の全体的な印象で類似性を評価する傾向があった。
 音調、リズム、音色など、いわゆる“二次音韻”に関する模倣の研究はおそらくない。目下のところ、音素面の模倣の問題に論点を限らざるをえない。
《音素類似の基準》
 オールポート(Allport,1924)は、子どもは他者の話す音素パターンを模倣するのではなく、ランダムな調音活動によって発せられたことのある音声が、他者によって再生産されたものにすぎない、という。ただし、このような“促しの音声”にある限定は加わっている。たとえば、box,bottle,bath,block,byeなどのような手本に対する子どもの発声baは、子どもが以前に発していた音素の再生産にはちがいないが、これらの手本はいずれも両唇音bにはじまっているという顕著な事実を、彼は説明していない。子どもが発したbaは、それを誘発させた音声刺激が共通にふくんでいるb音の影響をうけているものならば、やはり模倣といわなければならない。b音がどの程度、どの範囲の、刺激特性に依存しているかによって、それは模倣であるか否かが決定される。
 ルイスは“模倣”の基準について、つぎのように述べている。
 “たとえば、chocolateという語を一つ一つの母音・子音をはっきり確認できる日までは、その語の模倣はしていないのだと仮定してみよう。しかし、その日までに、子どもはchockieというようなことはいっていたのである。これは模倣ではないのか。そして、これが模倣であるとしたら、chockieをいい始めるよりさらに前に用いたgogaという語は何なのだろう。問題がつぎの点にあることはまちがいない。模倣の始まりを確認するのに、どこまで子どもの過去に遡るべきか、これである。これに対する答えは、あまり遠くまでは遡ることはできないが、あとの模倣の段階を理解するためには、いまはいかに未発達でも、やがては模倣へと成長するその最初の行動徴候を見守らなければならない、ということである”(Lewis,1957)。
 オールポートとルイスから、つぎの示唆が得られる。発達研究では、音声模倣を手本音声と子どもの音声との音素類似だけから判定するのでは不十分であり、特定の手本音声に対応する子どもの音声の追跡観察を通じて、その具体的な発達変化を明らかにしなければならない。このような個別的具体的な追及が子どもの模倣音声のいちいちについてなされるならば、そこに音声模倣の発達の正しい姿が浮かんでくるであろうし、そこに働く一般法則も発見されるであろう。
《音素類似と音韻》
 音素類似に関する聞き手側の要因として、聞き手の音韻が重要である。われわれが談話、とりわけ未完成な調音技能による音声を聞くときには、自分の音韻枠組が無意識に意図することなく利用され、その方向への認知の“歪み”が生じる。同じ子どもの音素パターンを、アメリカ人は“バウワウ”と聞き、日本人は“ワンワン”と聞くかもしれない(中島、岡本、村井、1960)。子どもの音声のもつ何がそのような差異をもたらすかということは、結局は、子どもの音声学習に重要な関係をもつ問題であろう。


【感想】
 著者も述べているように、「音素面の模倣の問題に論点を限らざるをえない」、つまり、「音調・リズム・音色など、いわゆる“二次音韻”に関する研究はおそらくない」という現状はオソマツであり、また、音調・リズム・音色が「二次的」だという認識は誤りである、と私は思う。「言語習得がとりわけ音声模倣に依存していることはいうまでもない」、そのことに全く異議はないが、その音声模倣は、まさに「音調・リズム・音色」の模倣から始まるという(発達的)観点が抜けている。著者はまた、擬音あるいは擬声は「言語的ではない」「言語的な模倣音声と区別され」と述べているが、その根拠は何だろうか。   子どもは、まず「声」を模倣する。声の音調・リズム・音色を模倣する。乳幼児の「泣き声」が聞こえると、それにつられて「泣きだす」事例は珍しくない。その声は、ある意味で「伝達の手段」でり、言語そのものであるという認識が必要である、と私は思う。
 著者は「発達研究では、特定の手本音声に対応する子どもの音声の追跡的観察を通じて、その具体的な発達変化を明らかにしなければならない」とも述べているが、それを具体化した著書「ことばの誕生と発達(0歳児)」(小久保正大著・有限会社シーエムディ・2002年)が、今、私の手元にある。その内容と比較対照しながら、以下を読み進めることにする。(2018.6.2)