梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・43

《音声模倣と意味》
【要約】
 ギョーム(Guillaume,1925)は、音声模倣はその音声が子どもにとって意味ないし意味の縁辺を伴っているときだけ生じるのであり、意味からまったく離れた音声の模倣ということはありえないという。レオポルド(Leopold,1939)も、自己の追跡観察を基礎として、模倣される音声は意味の理解できるものに限られていると述べ、ピアジェ(Piaget,1945)も、意図的な音声模倣では、それが子どもにとって新しい音声である場合でも、何らかの意味理解を前提としているといっている。レネバーグ(Lenneburg,1964)は、ダウン症の子どもについて、その初期の音声模倣を追跡した。彼はダウン症児の知的発達過程は、正常児のそれを引き伸ばしたもにであるとの仮定のもとで、彼らの音声模倣の発達過程も、正常児のそれを拡大してみせてくれていると考えている。その結果によると、音調やストレスのパターンは比較的容易に模倣されるが、調音面の模倣は再三の練習も効果がないとし、調音面の模倣ができない理由として、意味理解の欠如をあげている。調音面の模倣には“非常に特別な型の理解”が必要であろうという。
 一方、チャーチ(Church,1961)は、子どもはその意味を理解できないときだけ模倣するのであると述べており、ルイス(Lewis,1951)は、音声模倣ははじめは意味の理解される音声にだけ生じるが、音声模倣の成功が子どもに満足感を味わわせることによって、この模倣傾向は異常に活発となり、意味の伴う音声の範囲を超えるという。ただし、これはルイスのいう“潜伏期”の終わり(0歳10ヶ月)以後のことである。


【感想】
 ここで興味深かったのは、ダウン症児の初期の「音声模倣」を追跡した結果、「音調やストレスのパターンは比較的容易に模倣されるが、調音面の模倣は再三の練習も効果がない」ということがわかった、というレネバーグの指摘である。
 もし、自閉症児の初期の「音声模倣」を追跡したら、どのような結果になるだろうか。私の推測では、おそらく「音調やストレス」よりも「調音面」の模倣の方が先に生じると思われる。「音調やストレス」は感情の表現であり、それを模倣するということは、育児者との間で「感情の交流」が始まった証となる。レネバーグが仮定したように、ダウン症児の言語発達は正常児と同じ経過をたどる。彼は「(ダウン症児が)調音面の模倣ができない理由として意味理解の欠如をあげている」が、私は《聴覚的弁別力》の欠如と《構音器官》の機能不全が影響していると思う。
 著者は、音声模倣と(言語の)意味との関連を考察しているが、子どもにとっては《誰の音声を》模倣するかということの方が重要ではないだろうか。「パパも」「パパと」「パパの」「パパに」「パパは」などを模倣するとき、子どもは「も」「と」「の」「に」「は」という助詞の意味を理解して模倣しているとは思えない。生活の様々な場面の中で、周囲の大人が使う音声言語を《習慣》として模倣していくのではないだろうか。模倣には、「○○のようになりたい」「○○のようになれた」という憧れや達成感が伴わなければ、意味がない。子どもは模倣すること自体に(それぞれの)《意味》を見出しているのではないか、と私は考える。(2018.6.18)