梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・46

■その他の音声的象徴行動
【要約】
 身振りと音声模倣のほかに、重要な二、三の初期の音声的象徴行動がある。これらは、音声模倣と発達的に接続する関係にあり、本格的な言語習得過程の先行条件となるものである。
《半個人的な言語的表示》
 それは形式的にだけ言語であり、機能的にはなお個人的な性質の強い象徴行動であり、ピアジェ(Piaget,1945)はこれを“半個人的な言語的表示”とよんだ。
⑴Lという子どもは、1歳3ヶ月のとき、avoua[au revoir](さよなら)と発声するようになったが、これは、去る人・部屋を去る自分・シートから立ち上がる自分・ドアに手をぐれる自分、を表示する。Tという子どもは、1歳5ヶ月~1歳7ヶ月のとき、a plus(もうたくさん)と発声するようになったが、これは、去ること・投げ出すこと・ひっくりかえされたもの・遠くにあるもの・積み木・対象を手渡し投げ返してもらいたい欲求・人が持っているものへの欲求・何ごとかを再び始めたい欲求などを表示する。
⑵Jという子どもは、1歳1ヶ月にはじめて、イヌに対してvouaouを用い、1歳2ヶ月の中頃になると、家のバルコニーから見えるすべての生物および無生物にこれを用いている。また、はじめ祖父だけに用いていた呼び声panana[grand papa]を“祖父がいるならば自分に与えてくれるであろうものへの要求”に用い、のちには、拒否一般に用いるようになった。このような“語の使用”は、特定の人(家族の一部または全部)にだけ伝達として役立つに過ぎず、真の意味での語の使用には至っていない。
《音象徴》
 音声そのものが一つの感性的な性質を表すものとして認知されることを“音象徴”という。これは聞き手の属する言語地域社会の差異にかかわりなく、きわめて普遍的な性質をもつもので、各人の経験を超えた人間の感性面での本具の機能とみなされる。たとえば、共感覚説がこれであって、一つの感性領域での認知が、他の感性領域での一定の認知をつねに伴うことが共感覚である。たとえば、ある種の声は“黄色”として認知される。
 音象徴認知には、言語の差異を超えた普遍性がある。たとえばpingという音声型とpongという音声型について、それぞれがどのような性質を示す対象に結びつくかを成人について調べてみると、大部分の人は、pingには“小さいもの”を結びつけ、pongには“大きいもの”を結びつけるのである。この二つの音声型は母音iとoが異なるだけだから、iが小さい性質を象徴し、oが大きい性質を象徴すると考えられるのである。このような、物の性質と音声との対応関係は、必ずしも経験を通じて学習されたものとはいえない。実際、語はそのような物の性質と対応してはいない。
 1歳児が上記の母音性の音象徴行動の特性をそのまま示した例がある。人形用の小さな椅子に対してある子どもはまったく自発的にlikillとよび、普通の椅子をlakall、安楽椅子をlulullといったり、すべての丸いものにm音を用いた子どもが、大きい皿や丸テーブルはmum、時計や中皿をmem、月(それは子どもにとって小さく見える)をmimとよんだという観察報告(Stern und Stern,1907)がある。
 このような性質の音象徴行動に平行して、つぎのような別種の音象徴行動がみられることがある。それは、物の大きさを音声の大きさや一つの音声型の反復に対応させることである。たとえば、“非常に大きい”ということを大きな声で表したり、オーキー、オーキーと反復で表したり、大きいものを低く長い音声で表し、小さいものを高く短い音声で表したりする。大きい石は低い声で、口や目を丸くして発声し、小さい石は高く短い“可愛らしい声”で発声したという例も報告されている(Neugebauer,1914;Stern ind Stern,1907)。 このような一見信じがたい音象徴の早期出現は、子どもの音声的・言語的経験と関係づけるには、子どもがあまりにも幼すぎ、手本を成人が示すということも考えられないので子どもが本来もつ性質に帰せられている。
 ランガー(Langer,1960)は、その代表的な提言者といってよい。彼女は、言語発達にとって“言語的直観”が不可欠であり、この直観は、喃語本能、模倣衝動、本能的な音声への関心とともに、“表現に対するはげしい感受性”によって形成され、そのうちどの一つが欠けても、“言語的直観”は生じてこないと考える。そして最後の要因についてこう述べている。
 “(表現に対する激しい感受性は)真に、人間の相互交渉において、きわめて顕著な光を放つ精神の《高次の機能》なのである。・・・幼年期の独特の感受性は、ふつう、正確な色、音声などに対する注意という題目のもとに扱われている。しかし、はるかに重要なことは、純粋に視覚的な、また聴覚的な諸形式のなかへ、漠然とした種類の意味を余分につけてよみ込もうとする子どもの傾向性であると私は考える。幼年期は共感覚の旺盛な時期であって、音声と色と温度、形態と感情は、ある種の共通性をもち、それによって、ある母音はある種の色であり、ある音調は大きいかまたは小さく、低いかまたは高く、明るいかまたは暗くもありうる”(Langer,1960)。  


【感想】
 ここでは、子どもの音声的象徴行動のうち、「半個人的な言語的表示」と「音象徴」について述べられている、「半個人的な言語的表示」とは、要するに、特定の人(家族の一部または全部)にだけ伝達として役立つ「語の使用」であり、本格的な言語習得過程の先行条件として、きわめて重要であるということがよくわかった。
 「音象徴」とは、音声そのものが一つの感性的な性質を表すものとして認知されることである、と述べられており、それが聞き手の属する言語地域社会の差異にかかわりなく、きわめて普遍的な性質をもつものである、ということである。
 私が思い浮かべたのは「キャー!」という悲鳴、「アッ!」という驚き、「エッ?」という問い返し、などは万国共通であり、そうした音声を発するかどうかが、本格的な言語習得のために、きわめて重要だと思ったのだが・・・。
 ここで述べられていることは、発声の「あり方」自体が、「色」「温度」「形態」を象徴するということであり、著者がいうように「一見信じがたい」という感想を持った。
 私の興味関心は、むしろ自閉症児の言語習得過程において、感情を表現する「発声」が生じていたかどうか、という一点であり、(残念ながら)ここではそれを明らかにすることができなかった。(2018.6.21)