梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・35

■身振りによる伝達の限界
 身振りで非現実事象を表示することは可能であるが、音声行動と比較すれば大きな制約がある。そのおもな理由としてつぎの三つをあげることができる。
⑴大部分の身振りは、それが行われる事態に依存して表示の一義性を達成する。
⑵身振りで高度に抽象的な事象を表示することができない。
⑶身振りの単位は言語の単位(語)と同じではなく、談話と等価の単位である。個々の身振りは文や句のように連結して用いられることがあるが、その連鎖の内部に組織ないし構造をもつことはできない。
《表示の多義性》
 身振りが、それが行われる事態から引き離された事象を表示できるのは、身振りの受け手にとって、そこで“言及”される内容の範囲が、あらかじめ相当限定されている場合に限られる。聾幼児の指示行為に典型的にみられる(Heider and Heider,1940)。聾幼児の行う指示には、対象の表示と、人との接触の形成という二つの職能が認められる。さらに、指示行為は重複使用することによって叙述的表示となりうる。たとえば、自分を指示し、続いて対象を指示するとき、そこに種々の意味を伝えることができる。この二重指示は、単に“わたし、これ”ではなく、“これはぼくのものだ(所有)”、あるいは“これはぼくが作ったものだ(作製)”などの叙述として通用する。所有の表示か作製の表示かは“これ”とよばれる対象の性質と、“ぼく”の能力、ならびに、与え手(子ども)のそのときの表情・態度からの推測、などの総合によって決定される。このことは、この種の身振りの多義性を証拠立てるものであり、身振りは一般にこのような多義性をもっている。
《抽象的表示の困難性》
 身振りは主として大きな身体運動を媒体としているが、身体運動は本来、環境への物理的な働きかけをその第一の目的としているので、その表示性は物理的実用性に先取され、妨害される傾向がある。また、このような運動は、具体的な対象との連関や実用性を示唆するため、高度に抽象的な事象を表示することが困難である。等価性とか類似性のような、比較的単純だと思われる関係表示でさえ、身振りで行うことは容易ではない(Witte,1930;Heider and Heider,1940)。
《身振りの単位》
 身振りの単位は語ではなく、個々の身振りを組み合わすことによって文が作られることもない。身振りの連鎖は文ではなく、構造をもつことがない。身振りには格や機能語にあたるものがまったく欠けているし、名詞、動詞、形容詞などの大まかな分化さえない。


【感想】
 現在、聴覚障害児・者(相互)には「手話」という「身振り」が使われており、また、知的障害児・者、自閉症児・者など、「音声言語のやりとり」が苦手な場合には、「マカトンサイン」という方法も開発されている。
 ここでは、身振りによる伝達の限界が述べられており、「手話」や「マカトンサイン」だけでは、「高度に抽象的な事象」を表示することが困難であることを示唆している。
 私は現職時代、身近な聴覚障害者から「手話」を学んだ経験があるが、同じ「言語」でも、対応する手話が「その時によって、その人によって変わる」(一定ではない)ことに興味を惹かれた。また、聴覚障害者を配偶者に持つ同僚とも交流があったが、彼ら夫婦の間の「会話」(手話)は60%程度「しか、通じ合えない」ということであった。しかし、音声言語によるコミュニケーションでも100%通じ合えることは困難であるとすれば、視覚的手段だけで半分以上通じ合えるということは素晴らしいことだと思った。
 一般的に、自閉症児・者の認知は「視覚優位」であり、物理的環境の「構造化」がコミュニケーションをスムーズにすると考えられている。聞いてわからないことでも、見ればわかる、という状態は「聴覚障害」と同じである。しかし、自閉症児・者に「聴覚障害」はない。いわば私たちが、いきなり言語の通じない社会に「投げ出された」ような状態なのかもしれない。では、なぜ、そのような状態が生じるのだろうか。以降を読み進めることで、その要因がわかるかもしれない。(2018.5.20)