梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・37

《発達的連関についての諸説》
 大きく分けると三つの考え方があるようである。
 第一は、音声と身振りとの間に連関は認めるが、相互の経験的な因果関係を問題にしない立場である。音声がもともと、人間においては行為を伴い、両者が生得的に密接に結合していることは認めるが、この2種の反応のもたらす結果から経験的に音声の効果がすぐれていることを知るために音声が優位になるとは考えず、人間ではもともと伝達の手段として音声反応のほうが優位にあるとする一種の成熟説がある(Bloomfield,1933)。
 一方、経験要因を重視する立場がある。その一つは、音響物理学者のパジェット(Paget,1930)の“音声身振り説”ないしは“舌によるパントマイム説”によって代表される。この説では、幼い子どもの最初の意味的発声は、外界についての印象の直接の模写であり、身振りと異なる点はただ、その模写活動が口腔内で行われているということだけであって、音声活動もその他の身体活動も、伝達手段に関するかぎりでは、もともと同一の身振り的機能なのであり、漸次これが音声にゆだねられるようになるのは、両方を使ってみて、子どもが音声のほうがすぐれているということを知るからだと考えている。音声は、受け手にとっては見る必要がなく、与え手にとっては手がふさがっていても行えるなど、その利用価値は身振りよりはるかに高い。
 経験説の比較的新しい型は、身振りが音声へ移行する理由を、“行為の経済”ないし“最小努力”の原理に求めようとする。ミラーとダラード(Miller and Dollard,1941)は、身振りだけよりもそれに音声が伴うときのほうが受ける報酬量は大きく、音声が言語の慣用型に近いほど報酬量が増すこと、さらに、これらの複合行為のなかでは身振りは努力の大きいわりに報酬量を増させないということ、などを子どもが経験することによって、身振りは次第に脱落し、音声はますます優勢になり、かつ言語的になる、という。マウラー(Mowrer,1960)もこの説を支持して、“パントマイム説は否定されるとしても、音声言語がより粗大で努力のいる運動に代わるものであるという考えは残る。言語はしばしば有効に困難から人を解放するという強化をへて強められる”といっている。
《新しい動機の提言》
 人間はもとより多くの動物には、外界の刺激に注意を向ける反射的な反応様式が備わっており、生活体の積極的な環境適応を可能にする一つの重要な契機になるということが、最近ようやく問題とされてきた。これが“定位反射”とよばれるものである。この反射は、人間の場合は、はじめはむしろ受動的なものであって、音や光に対する反応としてそれらの刺激源のほうへ眼や頭を動かす反射にすぎない。しかし、やがてこれは環境に対する探索といってよい性質をもつものに変わってきて、0歳6ヶ月ごろになると、好奇心に近いものを感じさせるようになる。そこで、このような探索行動を起こすもとになるものとして、最近では“探索動因”とか“探究動因”とか、積極的に手を用いて対象を探索するところから“操作動因”などの概念がよく用いられるようになってきた。
 こうした動因は、ときには快・不快、あるいは努力の程度にさからって発動する。この動因は経験を豊かにし、困難にうちかって目的を達成し、あるいは、刺激をより多く求める、という方向に行動をかり立てる(Harlow,1955;Hebb,1958;Heron,Doane,and Scott,1956)。 このような積極的動因を考えに入れてくると、音声による表示行動は、単に身振りにとって代わるという面だけでなく、表示行動ないし対人的働きかけの新しい展開を促すものとして、相互伝達の拡大と深化とをもたらすという面から再解釈をする必要がおこってくるであろう。


【感想】
 著者は、音声と身振りの発達的連関について三つの考え方を紹介しているが、私自身は「人間ではもともと伝達の手段として音声反応のほうが優位にあるとする」成熟説に同意する。乳幼児は、まず「泣き声」「笑い声」によって、自分の気持ち(喜怒哀楽)を表現し、次に、物をつかんで「差し出す」、物を「指さす」などの《身振り》で事物を表示するが、その身振りには多くの場合、音声が伴っている。伴わない場合が、自閉症児に見られる「クレーン現象」であり、彼らにとっては「身振り」(行動)のほうが伝達手段としては優位にあるのではないだろうか、と私は考える。 
 音声のやりとりが不十分であったため、あるいは、音声の意味をよく理解できないために、「身振り」に依存する傾向があるのではないか。では、音声のやりとりが不十分であったのはなぜか、音声の意味をよく理解できないのはなぜか、それを解き明かすことが私自身の課題である。(2018.6.1)