梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「愛着障害」(岡田尊司・光文社新書・2011年)要約・7

《第2章 愛着障害が生まれる要因と背景》
【増加する愛着障害】
・子どもの数が減り、一人ひとりの子供が、手厚く大切に育てられているはずの現代において、愛着の問題を抱えた子どもだけでなく、大人までも増えているという現実がある。
(虐待、育児放棄、境界性パーソナリティ障害、依存症、過食症、「草食系男子」)
・愛着の問題を抱えている子どもだけでなく、大人までが、この社会にあふれているという事実は、何を意味しているのだろうか。
・愛着障害が生み出される原因について、これまでわかっていることを述べていきたい。
【養育環境の関与が大きい】
・不安定愛着を含む、広義の愛着障害を生み出す要因は何か、これまで行われた双生児研究や養子研究の結果は、愛着障害の要因が、主として養育環境によるものであることを示している。おおむね7~8割が養育などの環境的要因によるとされ、残りの2~3割が遺伝的要因によると考えられている。
【親の不在】
・養育環境の問題にはさまざまなタイプがあるが、もっともはやく知られていたのは親の不在である。
・愛着形成が完了しない時期に母親から離された子どもは、愛着自体が乏しい脱愛着傾向を抱えやすく、母子分離不安の高まった時期に母親を失うと、「見捨てられ不安」や抑うつが強まりやすい。その境目が2,3歳ころだと言えるだろう。
【川端康成の場合】
・「十六歳の日記」には、感情に流されず、事実だけを冷静に見つめるという回避型愛着の特徴が刻印されている。
【K君の場合】
・K君は1歳のとき、母親と生別した。3歳の兄とともに保育園に預けられた。兄は慣れたが、K君は一向になじめなかった。3歳になったとき、5歳の兄とともに母親と再会した。K君は母親の記憶がまったくなかったらしく、なじもうとしなかった。兄が6歳になったとき、母親が家に戻ってきた。兄は大喜びだったが、K君はどんなふうに接してよいか、わからない様子だったという。その後の成長も兄弟で対照的だった。兄は活発、社交的で母親にも遠慮なく甘えることができたが、K君は無気力で友達づきあいも少なく、母親に遠慮して本心から打ち解けることはなかった。
【ルソーの場合】
・ジャンジャック・ルソーは、愛着障害の人にみられる典型的な特徴や症状を示した人である。
・母親はルソーの誕生の直後に亡くなった。ルソーの面倒をみたのは父親と未婚の叔母であった。父親はルソーを溺愛した。
・ルソーは利発だったが、幼いころから問題行動を示すようになっていた。物を盗ったり、嘘をついたり、いたずらもひどかった。(盗み、虚言、度の過ぎたいたずらは愛着障害の子どもにしばしばみられる典型的な問題行動である)
【養育者の交替】
・愛着障害の原因として重要と考えられるのは、養育者の度重なる交替である。
・脱愛着がどんどん進んでいき、誰に対しても信頼や愛情を抱きにくい人間にしてしまう危険がある。
【漱石の場合】
・夏目漱石も、愛着障害を引きずり続けた。彼は生涯愛着障害を抱え、それを克服しようと文学者になった人物だと言える。
・漱石は、生まれて間もなく里子に出された。姉が不憫に思って連れ帰ったが、1歳10か月のころ、
夏目家の書生だった人物の養子になった。書生夫婦は漱石を溺愛したが、二人の愛情には、自然の情愛とは異なる、押しつけがましさと違和感があった。漱石は、親たちの期待に合わせて行動するしかなかったが、その反動は、問題行動となって現れ始めた。強情、わがままがひどくなり、度の過ぎたいたずらをするようになった。また、統制型の愛着パターンを思わせるコントロール戦略を養父母に対してとった。
・漱石が7歳のとき、養父母の夫婦仲が険悪となった。漱石は養母と二人で暮らしたり、養父、養父の愛人とその娘と四人で暮らしたりしていたが、見かねた実家に引き取られた。実家に戻ったとき、漱石は実の両親を祖父母だと思っていた。しかし、半年から1歳半という愛着形成の臨界期を、実家の両親のもとで過ごしたので、生母に対しては、愛着の絆が形成されていたと考えられる。幼い漱石は、長く離れていた我が家に、生理的とも言える安堵を覚えたが、父親の拒絶によって、親を慕う思いは裏切られる。5年後、母が亡くなり、漱石少年はますます強情になり、いたずらやけんかがひどくなって、叱られたり、否定されたりすることが多くなったが、愛着障害の子どもの典型的な経過だと言える。そのころの心境は「坊っちゃん」の中ににじみ出ている。
・後年、養父は二十余年ぶりに漱石の前に姿を現すと、金の無心をするようになる。漱石は、養父との付き合いをむげに断ることもできずにいた。この養父に対する愛着ゆえに、実の父親との絆が育ちにくかった面もあったかもしれない。
・漱石は、どちらの親に対しても、中途半端な絆しか結ぶことができなかった。それが、後々の漱石を脅かし続けることになる実存的な不安の根底にあったに違いないし、皮肉っぽい両価的な態度もそこに由来するのだろう。
・漱石は、幼児期後期には、統制型の愛着パターンをみせたりしているが、その後、養育者が転々と変わるという体験のなかで、回避型の愛着スタイルを強めていったと考えられる。統制型と回避型の両方が入り混じった、特有のパーソナリティを発展させたのである。人に容易に気を許さず、子どもの扱いも極端に苦手で、嫌っていたという面には、人との交わりを気楽に楽しめない回避型の性向のみならず、思い通りにコントロールできない相手に対して、どう接していいかわからないという統制型の不器用さの名残が表れている。
・しかし、愛着障害は、漱石に生きづらさを抱えさせただけではない。明らかに彼の想像力の源は、愛着障害とともに彼が抱えてきた悲しみや憧れ、自己矛盾にあった。不幸な生い立ちによる愛着障害を抱えていなければ、夏目金之助は生まれていても、夏目漱石は存在しなかっただろう。
【太宰治の場合】
・太宰治は、「境界性パーソナリティ障害」ということで、大方の意見の一致をみているが、その根底には「愛着障害」があった、と考えられる。
・太宰治は、生後間もなく、乳母に預けられた。乳母は太宰を「溺愛」し、太宰は乳母を愛慕した。太宰にとっての不幸は、乳母に対して抱いた愛着を、両親に対して抱くことができなかったことである。そして、その乳母と、ある日(5歳ころ)突然別れなければならなくなったという生涯消えぬ傷跡を残したことである。太宰は「見捨てられた」。その後(8~9歳ころ)乳母と再会したが、乳母には男児が生まれており、太宰に対しては「実によそよそしかった」。(「新樹の言葉」)
・太宰は、乳母に対する思慕の情、記憶を一緒に消し去るという「脱愛着」のプロセスを進んだ。太宰が高等学校に入った年の夏休み、乳母が死んだことを知らされたが、別段、泣きもしなかった。だが、愛着対象への思いを切断するという荒療治は、何か大切なものも一緒に切断してしまう副作用を伴う。
・太宰がなぜ実の親に対して、素直な愛情を感じることができなかったのか。親もまた太宰に対して、否定的な反応ばかりを返したのか。太宰が抱えることになる生きることに対する違和感の根っこは、生裂きにされた愛着にあるように思える。
・「新樹の言葉」は、太宰治中期の作品だが、処女作の「思い出」に、乳母は登場しない。この時期、彼はまだ、乳母との別離の傷跡に正面から向き合っていなかったのだろう。


【感想】
・ここでは、「愛着障害が生まれる要因と背景」が、川端康成、K君、ルソー、夏目漱石、太宰治の「事例」を通して述べられている。いずれも「母親の不在」「養育者の交替」によって、「脱愛着」のプロセスを進み、統制型の愛着パターンを身につけ、「不安障害」「境界性パーソナリティ障害」を発症している。
・川端康成、夏目漱石、太宰治といえば、日本文学を代表する人気作家である。それらの作品の源泉には「愛着障害」があったという指摘は、実に興味深かった。また、その「人気」の秘密は、読者の側からも「脱愛着」に共感するニーズがあるからかもしれない。
・「愛着障害」の要因は「病的な養育(環境)」にある。川端、夏目、太宰が生きた時代と現代では、「家族制度」「社会風俗」「生活慣習」などに様々な違いがあると思われるが、今、なぜ「病的な養育」が蔓延することになってしまったのだろうか。K君の事例が、大きな示唆を与えてくれるかもしれない。(2015.9.26)