梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・55

■非言語的な経験
《“内言語”の非言語性》
【要約】
 言語的代表過程が形成されるための要件の一つとして、マイクルバスト(Myklebust,1960)
は、“内言語”なるものを考えている。“内言語”はビゴツキーの“内言”とは異なる概念である。“内言”は談話の内面化ないし思考化であり、概念的思考の実質をなすものであって、5歳ころになってはじめて形成される、高度に言語的な機構である。これに対して“内言語”の“言語”は比喩的な意味しかなく、慣用言語とは直接の関係がない。それは、先天的全聾児のように、聴覚的に与えられる言語について何の経験ももたない者でも、別の感覚的資料の組織化の結果として生じうる、非言語的な代表過程をいうのであり、これによって彼らは“前概念的”な活動を行うことができる。
 しかし、聾幼児では、聴覚的資料が与えられないために、意味的経験の量も質も聴児に劣るから、放置しておくならば、このような前概念は十分発達することがない。そこで、言語訓練の基盤となるのに適し、そのために必要不可欠な“内言語”とはいかなるものか、それを形成するにはどのような教育計画がよいかという問題が、聾教育における基本的な問題として提出されている。
《“内言語”の社会性》
 聾児にきわだっているこのような初期の代表過程の重要性は、一般の聴児においてもかわりがない。聴児の場合には、特殊な訓練を必要とせず、日常経験を基礎に、いつのまにか形成されてしまう。この種の代表過程は非言語的な経験を基礎として形成されることから、比較的個人差のある、個人的な性質を帯びたものとなる。しかしそれは、ピアジェ(Piaget,1952)のいうような、“集団的”に対立する意味での“個人的”な性質をもつものとは考えられない。一つの集団(文化圏)での慣習の多くは、個人が出生後ただちに始められる、ひとしく遭遇し、ほとんど等しい結果を経験するところの、多くの自然現象ないし社会慣行に順応して作られており、また育児者の幼児に対する行為や態度は社会慣習に従っているからである。この意味で、原初的な代表過程にも社会化は進められており、言語が幼児をして個人的な代表過程から、一挙に社会的なそれへと変貌させる“魔力”をもっているわけではない。


【感想】
 著者は「意味的経験は言語理解にとって欠くことのできない前提である」として、ここではその「意味的経験」(非言語的な経験)として、マイクルバストのいう「内言語」をその要件の一つとして挙げている。 
 ここまで読んで、①「内言語」は「内言」とは、異なる概念であること、②「内言語」には「社会性」があること、についてはわかったが、具体的にどのような内容のものであるか判然としなかった。ただ、「日常経験を基礎に、いつのまにか形成されてしまう」というものだが、聴覚障害児の場合は「特殊な訓練」が必要であるということである。
 私自身、10年間、聴覚障害児教育にかかわり、難聴幼児の「言語指導」を行った経験があるが、「聴覚学習」(聴能訓練)を重ねるだけで「言語能力」が向上したように思われるので、「内言語」の形成については、取りあげて考えることはなかった。
 また、自閉症児は、聴児だが、「内言語」が「日常経験を基礎に、いつのまにか形成されてしまう」ようには思えない。その《日常経験》とは、具体的にどのような経験なののだろうか。先を読むことで何かがわかるかもしれない。
(2018.7.10)