私の戦後70年・《障子の中》
昭和27年の大晦日、祖母は当時大流行したインフルエンザで病死した。焼き場は「三が日」が終わるまで休業、父と私は祖母の棺と、間借りの八畳一間で「空しい正月」を過ごさなければならなかった。「棺を見守りなさい。生き返るかもしれないから」などと言う父の言葉を信じて・・・。線香の煙と、供物の林檎の匂いが入... 続きをみる
古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。
昭和27年の大晦日、祖母は当時大流行したインフルエンザで病死した。焼き場は「三が日」が終わるまで休業、父と私は祖母の棺と、間借りの八畳一間で「空しい正月」を過ごさなければならなかった。「棺を見守りなさい。生き返るかもしれないから」などと言う父の言葉を信じて・・・。線香の煙と、供物の林檎の匂いが入... 続きをみる
昭和28年元旦、その日は快晴であったが、私の心は、どんよりと曇っていた。前日の大晦日、同居していた祖母が、当時大流行していたインフルエンザで、息を引き取ったからである。母はすでに亡く、父と祖母の三人で、八畳一間の「間借り生活」をしている時であった。祖母は72歳、10日間ほど床についた後の、あっと... 続きをみる
父方の祖母を、私は「アンヨ婆」と呼んでいた。彼女は関東大震災で左足を負傷し、膝下を切断、義足を装着していた。松葉杖で歩行するので荷物が持てない。祖母が銭湯に赴くときは、小学校1年の私が随行する。脱衣所に入り、祖母が義足を外そうとするのを、子どもたちが取り囲み、こわごわと見つめている。彼らの視線は... 続きをみる
物心ついた時から、私は両手の親指をしゃぶっていた。そうすると、気持ちが落ち着くからである。退屈なとき、淋しいとき、入眠するときは必ずしゃぶっていた。祖母は、親指に包帯を巻き付けたり、辛子を塗ったりして止めさせようとしたが、効果はなかった。父も気に病んでいたようだが、表情を曇らせるだけで何も言わな... 続きをみる
昭和26年4月、小学校に入学した私はまもなく「登校拒否」状態になった。理由は単純、仲よしの友だちができなかったからである。近所には同級生もたくさんいたが、彼らは幼稚園時代からの知り合いで、その輪の中になかなか入れない。静岡弁まるだしの私は、その度に笑われた。登校時になると、家の柱にしがみつき、泣... 続きをみる
昭和26年4月、新しいランドセルに草履袋、革靴、学帽、よそゆきの洋服・・・、「ピカピカの一年生」の装いで、私は入学式に臨んだ。しかし、学校に対する恐怖心は増すばかりで、「泣き通し」の一日であった。セピア色になった記念写真には、当時の「泣き顔」が残されている。式が終わって、新入生は教室に入った。皆... 続きをみる
昭和26年2月、私は東京の小学校に入学するために上京させられた。まもなく、学校の身体検査(現在の就学時健診)があった。激しい雨の中、親類の女性に伴われて入学する小学校に向かったが、私はすべての検査を「泣いて」拒否した。薄汚れた校舎、厳しい表情で指示する教員、新入生を世話する上級生、東京弁で楽しそ... 続きをみる
昭和26年2月、父・祖母に伴われて私は静岡を出立、東京に向かった。列車が東京に近づく頃はもう夜だった。横浜を過ぎた頃,車掌がやって来て「東京駅構内で事故が発生しました。この列車は品川止まりになります」という。乗客には不安が走った。今日のうちに目的地まで行き着くことができるだろうか。降り立った品川... 続きをみる
昭和26年2月、私は父と祖母に伴われて上京することになった。静岡駅で東京行きの列車を待っていると,下りのホームにアメリカ兵が鈴なりに乗っている列車が入ってきた。彼らは,上りのホームで待っている私たちに向かい,大きな叫び声をあげながらチョコレート,キャラメル,チューインガム,ヌガーなどの高価な菓子... 続きをみる
父の友人夫妻に伴われて満州から引き揚げてきた私は、小学校入学まで静岡市内にある祖母宅で過ごした。その隣家にはYちゃんという、私と同年齢の男児がいた。まもなくYちゃんにはFくんという弟も生まれ、三人は両家宅の庭先で遊び呆けていたのだが、ある時、異変が生じた。Yちゃんの母親が肺結核を発症したのである... 続きをみる
五月の中旬だったろうか、夜の10時過ぎ、父の知人が柏餅を土産に訪れた。寝ていた私を起こしていわく「コー坊、美味しいものがあるぞ」。当時の甘い物といえばサツマイモかサッカリン、あん入りの菓子は珍しかった。私はありがたく頂戴し床についたのだが、翌日から体調に異変が生じた。頭が締めつけられる。米兵のG... 続きをみる
祖母宅の押し入れには、古い新聞紙が捨てられずに収められていた。私は、それを引っ張り出して、画用紙代わりに絵を描いたり、ちぎったり、まるめたりして遊ぶのが好きだった。祖母は叱りもせず眺めていたが、時には、「折り紙」のようにして、ヒコーキや二艘舟、紙財布などを作ってくれることもあった。5月の節句には... 続きをみる
いつのことかは定かではない。一足先に満州から引き揚げ、祖母の元で暮らしていた私の所へ、兵役から生還した父が訪ねてきた。それまで溺愛されていた私は、人見知りが激しく、成人男性には寄りつかなかったという。その場の一同は、父と私が再会する場面を興味深く見守っていた。父は笑いながら「オイ、コウタロウ、お... 続きをみる
満州で父は応召、母とは死別したので、私は父の友人夫妻に保護され引き揚げた。当時は2歳頃(記憶は皆無だが)、夫妻家族とともに母の実家のある静岡駅頭に降り立った。出迎えた母の親族は、私の姿を見るなり、思わず「期待外れだっけやー」と嘆息したという。さもありなん・・・、数年前母が満州へ渡る時、親族は歓送... 続きをみる
私は昭和19年に満州ハルピンで生まれたが、母は翌年の3月に病死した。父は応召され、やむなく友人夫妻に、私を預ける。友人夫妻には三人の男子がおり、末っ子が私と同年齢のため、夫妻は快諾したという。まもなく終戦、引き揚げとなる。夫妻は四人の男子を抱えて過酷な帰途に就くことになった。無蓋車を乗り継ぎ、よ... 続きをみる
鬱蒼とした森の茂みの中を一本の小川が流れている。辺りは静まりかえり、水音だけがサラサラとオルゴールのように聞こえる。両岸は竹笹やイヌワラビが生い茂り、その脇のの小道を上流へと進むうち、川の中に段差(堰)が現れた。透明な水が、滝のように流れ落ちる。また進むともう一つ、さらに進むともう一つ・・・とい... 続きをみる
昨日、今日と二日間に亘って知人A氏の葬儀が執り行われた。A氏の享年は63歳、現役を退職して五年が経過、病気療養中の見舞客も四、五人ほど、親族といっても従姉妹の二家族(五、六人)だったので、「通夜の客」は二十人程度、多くても三十人を超えることはないだろうと思っていたが、あにはからんや、職場の同僚・... 続きをみる
山村暮鳥全集(弥生書房) 明治大正文学史(東京修文館・吉田精一) 我が愛する詩人の伝記(中央公論社・室生犀星) 近代詩(市ケ谷出版社・富倉徳次郎) 近代日本文学思潮史(至文堂・長谷川泉) 大手拓次詩集(創元社・大手拓次) 暮鳥詩集(厚生閣) ドストエフスキイの生活(創元社・小林秀雄) ロシア文学点... 続きをみる
明治17年1月(0歳) 群馬県群馬郡堤ケ間村に生まる 明治32年10月(16歳) 小学校代用教員となる 明治34年(18歳) キリスト教を知り愛の福音に心を奪われる 明治35年1月(19歳) 洗礼を受ける 明治36年(20歳) 東京築地の聖三一神学校に入学 ... 続きをみる
詩の好きな生徒が、よくこうも集まったとあきれるほどで、二年間にわたって毎月ガリ版刷りの詩集をかかさず出し続けてきた。これには私も全く感心した。しかし詩作はいいことだが、そればかりではダメだということに気づいて、それじゃ暮鳥がやさしくて親しみがあるから、このへんからとっかかろうかということではじめ... 続きをみる
秋晴れの日曜日、我々四人は、かつて暮鳥と生活を共にされたほど親しかった花岡謙二先生を池袋に近い先生宅にお訪ねした。 先生は、もう相当にお年を召され、病床に伏しておられたので、我々は床ののべてある一室に通されたが、そんな御様子にもかかわらず、枕元の机には原稿用紙がよせてあったのが、先生のきびしい... 続きをみる
山村暮鳥には、翻訳『ドストエフスキー書簡集』、小説『十字架』、童話『チルチルミチル』『少年行』『万物の世界』『葦舟の児』『お菓子の城』『鉄の靴』その他数々の童謡等があるが、暮鳥41歳の短い生涯は詩を書くことで終始されたといってよいだろう。暮鳥の詩集『三人の処女』『聖三凌玻璃』『風は草木にささやい... 続きをみる
大正7年の末頃から、生活は極端に苦しくなり始め、一銭銅貨一つなく、又、子供に菓子を買ってやることすらできない状態で、十日余りを過ごすといった時もあった。「真実に生きようとするもの」(『梢の巣』」)という詩には、この頃の生活の様子が描かれ、そのような苦しい時にあたって、暮鳥が如何に感じ如何に考えた... 続きをみる
暮鳥の一生は詩作の一生であり、その日々の生活は詩作のための芸術であった。 “芸術のない生活はたへられない。生活のない芸術もたへられない。芸術か生活か。徹底は、そのどちらかを撰ばせずにはおかない。而も自分にとっては二つながら、どちらも棄てることができない。” (詩集『雲』の... 続きをみる
第三期は、晩年の詩集『雲』の時期である。これは、彼の信仰が全く落ちつき、生活の一つの底流となっていて、清らかな、静かな生活から生まれ出たものである。 『風は草木にささやいた』で彼は人道主義の立場に立ったが、次の『梢の巣にて』になると、それは彼としては無理に背のびをした恰好となって、それ以上は、... 続きをみる
その当時の事は、彼が『半面自伝』でも書いているので、それを引用する。 “(前略)其の後自分はドストエフスキイの研究とその翻訳に自己をささげた。「感情」は「卓上噴水」の延長であるがそこに驚くべき発展がある。甦った自分はまづその声を此処からあげた。自分はよみがへった。それを証拠立てるもの... 続きをみる
山村暮鳥は、大ざっぱに言って三変している。それもはっきりと分かる程の変化である。つまり、三つの時期に分けられるのである。しかし、それは単なる芸術追求の手段としてではなく、もっと彼の生活、本質と強く結びつき、ある程度の必然性をもって、変わっていったということができる。 第一期は、処女詩集『三人の... 続きをみる
大正9年の1月に、吉野義也によって福島の平町外北好間上野菊茸山に新築された家に移った。自分の生まれた故郷に戻るということで新しい生活に希望を持っていた。しかし、この希望は見事にくじかれた。彼が結核患者であり、クリスチャンであるという理由で、部落民の大迫害を受けたのである。この地に十数日居ただけで... 続きをみる
眞實に生きようとするもの 妻よ お前はジァン・フランソワ・ミレーを知つてゐるだらう それを本で読んだことがあつたらう あの画描きのミレーのことだ 自分達はよく彼のことをはなした 彼がいかにまづしくあつたかをはなしあつては胸を一ぱいにし 自分達の境遇をなぐさめ 凡そ地上に芽ぶいたものは そして一き... 続きをみる
大正6年7月頃から、暮鳥は百姓も始めた。百姓をすることによって大地に自然に触れたのである。 此處で人間は大きくなるのだ とつとつと脈うつ大地 その上で農夫はなにかかんがへる 此の脈搏をその鍬尖に感じてゐるか 雨あがり しつとりとしめつた大地の感觸 あまりに大きな此の幸福 どつしりとからだも太... 続きをみる
大正4年は、詩壇の突然変異と言われた詩集『聖三凌玻璃』を出版した年で、非常に野心に満たされていた年であった。室生犀星や萩原朔太郎と共に人魚詩社を作り共に活動した。大正4年3月24日付茂木正蔵宛の書簡には“あはただしき一夜泊りのたび人はその後二三日前まで教会と文壇とのために暇をまはし申... 続きをみる
明治17年1月、群馬の高崎に近い堤ケ岡という村に生まれて以来、暮鳥の不運な生活が始まるのである。豊かな農家に生まれたが家庭内は陰鬱であった。後、この家を去った暮鳥一家は小作百姓となってしまった。16歳に満たない時から、陸軍御用商人、、活版職工、紙屋、ブリキ屋、貿易商、鉄道保線課等の職業を転々と歩い... 続きをみる
明治20年、群馬県に生まれる。18歳の時に一方の耳が聞こえなくなり、この頃から詩人として立つ希望を抱いた。だが詩集はボードレールとサマンくらいしか読んでいない。従ってその詩想もフランス的であり、他の日本の詩人とは出発点が異なっている。彼は詩を創作するうえで詩壇を対象とせず、ただありあまる感性のは... 続きをみる
雨の詩 雨は愛のやうなものだ それがひもすがら降り注いでゐた 人はこの雨を悲しさうに すこしばかりの青もの畑を 次第に濡らしてゆくのを眺めてゐた 雨はいつもありのままの姿と あれらの寂しい降りやうを そのまま人の心にうつしてゐた 人人の優秀なたましひ等は 悲しさうに少しつかれて いつまでも永い間う... 続きをみる
大正3年、室生犀星、山村暮鳥、萩原朔太郎らは人魚詩社を作った。共に詩、宗教、音楽の研究を目的とするためであった。また詩壇だけの交際だけでなく個人的にも親しくしていた。詩人室生犀星を特徴づけるものは何かの詩理論の高さではない。詩についての知識の広さ、特にヨーロッパの詩についての知識でもない。 彼... 続きをみる
これ以後、彼の詩は変化している。・・・といってもこの変化は、彼の本質のあらわれたものである。詩集『氷島』は、その以前に出した『抒情小曲集』に含まれている『郷土望景詩』から詩境が続いており、『郷土望景詩』は、彼の郷土に対する潜在的な敵対感をうたったものであるが、『氷島』にもこの様な態度がみられ、&... 続きをみる
萩原朔太郎は、暮鳥と親しく又、良く彼を理解した詩人であったが、暮鳥がたいした評をもって詩壇に登場しなかったのに対して、彼は処女詩集『月に吠える』によって、世の好評を浴び、詩壇に華々しくデビューした。 彼の詩は、当時としては、全く新しいものであり、異常で病的かつ繊細な彼の感覚から生まれ出たもので... 続きをみる
百田宗治は詩集『何もない庭』において、今までの詩風から、転じてというよりも、深く掘り下げたというほうが適当なように、人生的なわびしさ、庶民的なわびしさに沈んで、淡々とした詩情を添えながら、貧者への共感と社会への懐疑を感じている。 味噌汁 朝は味噌汁をすするんだとよ くらいうちの門さ... 続きをみる
民衆派詩人、百田宗治の詩を通じて、民衆詩というものが、直感としてどのようなものであるかということを探りながら、山村暮鳥における民衆詩的なものとの関連性を考えていきたいと思う。 定評として、民衆詩派詩人の詩は、内面的律格を欠き散文に堕する、直感より思想の概念的傾向に流れ、又詩人それ自身資質がとぼ... 続きをみる
民衆詩派は感情詩派に対していう。“我々は人間性を害われた一切の病的な思想や神経を排する。そのようなものを唯一の本質であるかの如くに思っている従来の貴族的な、又弱々しい神経の一切の芸術を排する。” そして白樺派に対していう。“お説教やお談義は折角芸術の好きなも... 続きをみる
《社会的性格》 民衆詩派とはいかなるものであったか。又いかにして生じ、いかにして消えていったか、その生命とするところは何であったか、そのような点について述べていきたいと思う。 第一次世界大戦の最中、欧州では、打ち続く戦闘という現実の中で、為政者と民衆は激しく対立し民衆による人道主義的現実批判戦... 続きをみる