梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「高群逸枝全集 第一巻 母系制の研究」(理論社・1966年)通読・9

《氏姓の紛争》
【要点】
 氏姓の紛争はその裏面に潜む何等かの利害関係に由来するものであるが、わが国史上にあっては、その実相を確証するに足る記録は乏しい。しかし、だいたい次のような場合を考えることはできる。それは部民または賤民、あるいは地位低い自由民、首長等が、その所属する環境より脱しようとして、本姓へ復帰の訴訟(実は母氏姓より父氏姓に改移しようとする訴訟)を提起する場合であるが、この種の訴訟は史上にも見え、かつ大化改新後の若干期間賜氏姓の盛行に徴しても、それ以前の時代においてはこの欲求は一層の切実さに迫られていたであろうことは疑いがない。なぜなら、改新以前の氏姓時代にあっては、氏姓紛争の惹起はきわめて切実かつ必然であるとともに、それゆえになお一層被支配者がその桎梏より脱する唯一路であると考えられたからである。
 氏姓紛争の記録は記紀允恭天皇條に見えているのが初見である。(略)氏姓の紛争を盟神探湯によって判決したことが記されているが、これと類似の記録が継体記廿四年條にも見えている。これは日本人と任那人とが婚姻して、子供を生み、氏姓上の紛争を惹起して、訴訟難決、無能判の事態を生じたのを、毛野臣が探湯によって決裁したというのである。 右の二例はいずれも低位の民が高位者を父祖とし、または仮冒して提起する紛争であって、その契機は当時の婿入婚および母家単位の族制に基づく父氏姓喪失、または父氏姓の不明に乗ずる仮冒、または低位母氏姓より高位父氏姓への改移の要求にあり、氏姓紛争がその根底に、種々の社会事情・・例えば婿入婚および母家単位の族制と照応する何等かの社会関係、あるいは部曲制の基礎上における諸階級の交渉等の多くの事情を孕んでいるいることは見易いことで、特に貴族および公民、奴隷、この三者の交渉が惹起する諸相は、直接系譜上に現れて、氏姓紛争の表面的契機を作る因となっている。日本では国作り、氏作り、部作り等が各階級の交婚によって助成された場合が多く、これを被支配層より云えば、祖作りとなるのであって、夷種の族にして皇別氏を称し、帰化の民にして神別氏を唱え得る特権は、這間の事情より派生するに至るのである。
 要するに、氏姓の紛争は氏姓時代必然の現象であるが、允恭紀前後における初期時代の様相が、仮冒を伴った父祖追求であるように記されているのに反して、孝徳紀にあっては父子易姓、兄弟異宗、夫婦殊名等の悖理的事態から、それらの紛争が生起するというように認識され、さらにその解決を妨げているものは部曲制度であるというように解されている。このことは下層の民による父祖の追求が広汎な面に普及していることと、その追求が新時代的父系思想に合するもので、これを拒否すべき何等の理由もないこと、従って、部作りの盛んに行われた地方の部民は、すでに芋蔓式に系譜面を変化させており、新時代思想によればそれらの部民と自由民との間には何等の差異もないこと、しかし、部曲制は旧態をそのまま釘づけており、その種の部民が所属の奴隷層より脱出することを拒否している等の種々の問題がある。いま系譜上よりこれらの諸問題を観察すれば、母家単位的家族制に対する父系思想の勝利への悩みであり、氏族制系譜に対する家族制系譜の最終的、全面的決戦であるといえる。


【感想】
 母系制社会では母家を単位とするため、子供は母の姓を名乗る。当時の姓には位の差があったので、父の姓の位が母の姓の位よりも高い場合、子供は父の姓を名乗りたくなるのは当然だろう。そこで父の姓を仮冒(名をかたること。偽称)するという現象が多発する。
それが発覚した場合は紛争となる。第19代・允恭天皇はそうした問題を解決するために、
〈盟神探湯(くがたち)を行って氏姓を正しく定めた。盟神探湯とは神に誓った後、熱湯に手を入れる誓約(うけい)の一種である。〉(ウィキペディア百科事典「允恭天皇」より引用)第36代・孝徳天皇の時代には父系思想がより顕わになって、下層の民による父祖の追求が、系譜の面を変化させているということである。
 著者はそうした時代の流れを「母家単位的家族制に対する父系思想の勝利への悩みであり、氏族制系譜に対する家族制系譜の最終的、全面的決戦である」と記しているが、その戦いが、延々と鎌倉時代まで続いたのだろうか。


【参考資料】
《部民制》王権への従属・奉仕、朝廷の仕事分掌の体制である。名称は中国の部曲に由来するともいう[1]。その種類は極めて多く、大きく2つのグループに分けることが出来る。1つは何らかの仕事にかかわる一団で、もう1つは王宮や豪族に所属する一団である。
前者の例としては語部・馬飼部などがある。語部は、伴造(とものみやつこ)である語造(かたりべのみやつこ)氏に率いられ、古伝承を語り伝え、宮廷の儀式の場で奏上することをその職掌とした。後者の例としては王族・額田部女王に属した額田部、豪族・蘇我臣や大伴連・尾張連に属した蘇我部や大伴部・尾張部などがある。ただし後述のように、朝廷に対する奉仕を媒介として設定される点では職業系の部と通底している。律令制の実施に伴って廃止されていく。律令制の実施後の部称は、たんに父系の血縁を表示するだけの称号であるにすぎず、所属する集団との関係を示すものではない。(ウィキペディア百科事典)
《賤民》:民衆を良民と賤民(五色の賤)とに分け、農民である良民には租・庸・調・納税・雑徭の義務を課した。賤民にはこれらの義務がなく、また良民だからと言って権利があるわけでもなく、不自由な良民よりも、自由な賤民を選択する者が続出した。(ウィキペディア百科事典)
《自由民》:他人の強制を受けない自由な人民。特に、古代社会の奴隷身分以外の者をさす。(コトバンク)
《允恭天皇》:允恭天皇(仁徳天皇64年? - 允恭天皇42年1月14日)は、日本の第19代天皇(在位:允恭天皇元年12月 - 同42年1月14日)。即位4年、健康を取り戻した天皇は氏姓制度の改革に乗り出す。この時代に用いられていた氏(うじ)と姓(かばね)は群臣たちが自らの身分を表す称号だったが、氏姓間の上下関係さえわからない上、氏姓を偽る者も多くあり乱れていた。氏姓の乱れは国を乱すと憂いた天皇は全ての氏族を飛鳥甘樫丘に集めた。そして盟神探湯(くがたち)を行って氏姓を正しく定めた。盟神探湯とは神に誓った後、熱湯に手を入れる誓約(うけい)の一種である。偽る人は火傷を負うとされ、偽る人に恐怖感を与え自白する効果もあった。天皇は氏姓に偽りのないことを群臣に誓わせながら誤った氏姓を正したのである。また即位5年には天皇の母である葛城磐之媛の兄弟、あるいは甥にあたる葛城玉田宿禰を先帝の殯宮での役目を怠ったとして討っている。(ウィキペディア百科事典)
《孝徳天皇》孝徳天皇(こうとくてんのう、596年〈推古天皇4年〉- 654年11月24日〈白雉5年10月10日〉)は、日本の第36代天皇(在位:645年7月12日〈孝徳天皇元年6月14日〉- 654年11月24日〈白雉5年10月10日〉)。孝徳天皇元年6月19日(645年7月17日)、史上初めて元号を立てて大化元年6月19日とし、大化6年2月15日(650年3月22日)には白雉に改元し、白雉元年2月15日とした。『日本書紀』が伝えるところによれば、大化元年から翌年にかけて、孝徳天皇は各分野で制度改革を行なった。 この改革を、後世の学者は大化の改新と呼ぶ。この改革につき書紀が引用する改新之詔4条のうち、第1条と第4条は、後代の官制を下敷きにして改変されたものであることが分かっている。このことから、書紀が述べるような大改革はこのとき存在しなかったのではないかという説が唱えられ、大化改新論争という日本史学上の一大争点になっている。
孝徳天皇の在位中には、高句麗・百済・新羅からしばしば使者が訪れた。従来の百済の他に、朝鮮半島で守勢にたった新羅も人質を送ってきた。日本は、形骸のみとなっていた任那の調を廃止した。多数の随員を伴う遣唐使を唐に派遣した。北の蝦夷に対しては、渟足柵・磐舟柵を越国に築き、柵戸を置いて備えた。史料に見える城柵と柵戸の初めである。
(ウィキペディア百科事典)
《仮冒》:他人の名をかたること。偽称。(大辞林)
《部曲》:部民とも書く。大和時代 (大化前代) の豪族の私有民。中国で奴婢を意味する。彼らは令制の家人,奴婢とは異なり一定の職業をもち,だいたい村落を単位として豪族に仕え,租税を納め,徭役に従いその隷属する主家の名に「部」の字をつけて名字とした自営の民である。また,各豪族は,別に奴隷を所有していたところからみて,部曲の身分はそれほど低いものではなかったであろう。大化改新後廃止され,天武朝には公民となった。(ブリタニカ百科事典)
《氏族》:氏族(しぞく、うじぞく、英語: clan)とは、共通の祖先を持つ血縁集団、または、共通の祖先を持つという意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと。(ウィキペディア百科事典)
《氏族制》:氏族が社会の主要単位として,経済的,政治的,社会的な機能を有する仕組み。通常,古代国家成立以前の歴史上の氏族制度と,現在にいたるまで一部の小規模社会に保持されてきた氏族制度とがあり,しばしば後者によって前者を復元する試みがなされてきた。しかしすべての民族が氏族制度を経験したわけではなく,また氏族制度それ自体にもさまざまな変差がみられる。変差の基本的指標には,母系か父系かという出自慣習のあり方,全成員の間にどのような自律性があるのか,あるいは,地域的居住との関係,氏族内部における一定の階層的序列の有無の問題などがある。(ブリタニカ百科事典)
(2019.10.30)