梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

父のレコード・4・軍国歌謡

 同じ松平晃が歌う「急げ幌馬車」「夕日は落ちて」の舞台は、明らかに「大陸」、満州であろう。いずれも大陸を放浪する旅鴉の心情を描いている。「夕日は落ちて」は芸者・豆千代とのデュエットだ。二人で「休めよ黒馬(あお)よ 今しばし 月が出たとて 匂うとて 恋しの人が 待つじゃなし 頼むはせめて そち一人」と孤独を託つのも、不自然といえば不自然、異色といえば異色、そもそも日本の大陸進出自体が不自然(柄にもないの)だから「やむを得ない」情景といえるだろう。 
 昭和11年の「国境ぶし」はまだその「浮かれ気分」が漂うが、日中戦争が始まった12年の「ああ我が戦友」以降は、戦死者を弔う鎮魂歌が続く。この歌は日露戦争を舞台に明治38年に作られた「戦友」の昭和版とでもいえようか。いずれも戦友の最後の様子を家族に知らせようとする歌だが、「戦友」の結びが「思わず落とすひとしずく」であるのに対して、昭和版は「弾に当たったあの時に 天皇陛下万歳と 三度叫んだあの声を そのまま書いて送ろうか 涙で書いたこの手紙 涙で読んで笑うだろ 君の母君妹も やっぱり大和の女郎花(おみなえし)」(作詞・林流波)。この一節で「涙で読んで笑うだろ」という一句が私には解らない。ひとたび戦地に赴けば「生還」することなど「恥の極み」、さればこそ白木の柩で帰ることが遺族の喜びだという、当時の国民感情を表したものだろうか。明治の「戦友」は厭戦的だということで禁止されたそうだが、あえてそれと「婦人従軍歌」を(「ああ我が戦友」に)挿入することで、反戦の気持ちを伝えたかったのかもしれない。いずれにせよ、「生きて帰るな!」という国民感情は、日本人の「恥の思想」を利用した軍国主義者(民族主義者)の姑息なプロパガンダの産物であり、日本人本来の生活意識とは無縁だと、私は思う。
 14年の「仰げ軍功」「父よあなたは強かった」は、ともに「皇軍将士に感謝の歌」を朝日新聞社が懸賞募集した際の応募作品入選作である。作詞者が素人の国民だということで、すべての国民の戦意が高揚していた証のように思われがちだが、いずれも戦死した父、夫、兄、弟らに対する感謝、哀悼の心情があふれており、「だから戦争はもうごめんだ」という気持ちが、私には伝わってくる。前者の一節は「歓呼渦巻く駅頭で 日の丸振って見送った 雄々しい姿目に残る ああ凱旋は声も無い 貴方の犠牲あればこそ 戦地に薫るこの大捷」(作詞・得丸一郎)。あなたの命と引き替えに、戦地は大捷(大勝利)をおさめたが、「ああ凱旋は声も無い」という嘆きの方が強い。そして後者の一節は「友よわが子よ ありがとう 誉(ほまれ)の 傷の物語 何度聞いても 目がうるむ あの日の戦に 散った子も 今日は九段の 桜花 よくこそ咲いて 下さった」(作詞・福田節)。 わが子は戦死、その友は負傷したのか・・・、いずれにしても名誉であることに変わりはない。わが子は九段の靖国神社に「神と祭られ」、毎年、春には桜の花となって開くのだから・・・。同時期(昭和14年)の「九段の母」(歌・塩まさる、作詞・石松秋二)にも「神と祭られもったいなさに 母は泣けます うれしさに」という文言が見られるが、それは決して「本音ではない」ことに気づかなければならない。そういえば、東京の開花状況は靖国神社の桜で決まるとやら、現代の人々に戦死者の声がまだ聞こえているとは思えない。(2019.3.28)