梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「高群逸枝全集 第一巻 母系制の研究」(理論社・1966年)通読・15

《第一章 祖と母系》
《第一節 祖の意義》
【要点】
 およそ祖は一対の男女を起源とするであろう。ゆえに男女二者を始祖とすべきだが、種々の社会制度のため、祖を一者に限ることが、通例となっている。概して母系時代の氏族は、ある一人の母性を祖とし、父系制にあっては、ある一の父祖を仰ぐようである。されば、祖は氏族なり、家族なりにとって、ただ血統上の始原たるのみでなく、その属する族制の長であることを意味するのであろう。
《御祖》
 わが古語にいう「御祖」(ミオヤ)は母の意であるとは宣長の説である。紀伝に「記中にて御祖とは、母を云る例なり」とある。瀧川政次郎の法制史には「オヤ(祖親)という語は母を意味する古語オモと同語原であり、タラチネというオヤの枕詞も、母親に関係があり、またハラカラという言葉も、同一の母より分かれ出たものという意味である」といい、次田潤の古事記新講にも「上代にオヤというのは母と祖の両義に用いられる。母をオヤと訓む例は万葉集に多い」といっている。
(略)
 皇室にあっても、御母をスメミオヤ、オホミオヤと申させ給う例を見る。舒明天皇の御母を島皇祖母(シマノスメミオヤ)と申し、孝徳天皇の御母を吉備皇祖母(キビシマノスメミオヤ)、皇極天皇を皇祖母尊(スメミオヤノミコト)と申す。
(略)
 記伝によれば、わが古語で母をオヤというのは(わが古語で父をオヤという例はないという)、幼時母のもとにて撫育されたからであろうというが、同時に、さらに遙かなる太古からの遺存語ではないかと思われる。(略)
《御祖と氏神》
 古代人が氏神と斎いたのは、祖先神に外ならないと信ずるが、氏族の祀る神は祖神のみではなく、三種に大別される。 
 一は「物」の神である。古語の「モノ」は神または霊をいう。「モノノケ」というのは、神秘、神怪から起こった言葉であり、神の総主を「物主」と称し、神軍を「物部」と云ったのである。この種の神霊は、氏々の職業またはその所属の文化と深い関係があった。
*鍛冶→剣・鏡 *陶工→竈 *機工→機神(幡神)*玉作り・石作り→石神 
*火神「カグツチ」「ホノイカズチ」「ワキイカズチ」
*水に因むもの「ミズハ」「オカミ」「クラカミ」
 以上を総称して「物霊」といい、宇宙間の全物象を対象とする観念である。
 次に、「カミ」または「カモ」と称する神霊観念である。これは現実の氏の上より生じたもので、祖先の陵墓を神域とする信仰形態である。氏神の観念はこの領域より発生したものと思われる。すべて祖先崇拝が農業族にこれを見ることが多い。神社はこの系によって発達した。(略)
 第三の神は地主神である。神武天皇の御東征が成って、大和の地に帝都を定め給うと同時に、倭国魂の神を奉斎し給うた例、また伊勢の神宮創祀以後、同地の地主神として国魂比売神を祭られた例等多い。これらの地主神も、神社が設置されていない時代には、その地の支配氏族が自家の祭壇に祀ったのであるから、これも氏族の祭神の一であることに疑いがない。
(略)
 これら雑多の祭神中、純粋の氏神は、やはり血統上の神(祖神)であって、血統の本源にある。(略)今、一二の例をあげれば、賀茂神社における賀茂御祖神社がこれであり、誉田別尊における息長帯姫尊がこれである。また味耟高彦根命にはほとんど常に宗像女神が配祀せられ、熊野神社の家都御子神に対して伊弉卅命を配祀する例など枚挙にいとまがない。御子神に対して、御母神を配する祭祀法は、極めて古代の法であって、各地に母子山または嬢子山、箱根(母子嶺)等の名が多いのは、母子の神を象徴するものと見ねばならない。(略)
 氏族の宗祖を祀る場合、比売神・豊姫神等の配祀れている例は多く、太古この女神を母と仰いだ一大氏族があったことが想像される。 〈例〉宇佐神宮、平野神社における比売神、敦賀の気比神宮、久留米の高良、豊前の香春、肥前の河上神社における豊姫神
 比売碁曽神というのも同一神であろうと云われている。この姫神は別名下照姫と称し、国土神の最貴の名の持ち主で、出雲系の同名の女神と相競っている風がある。この女神の渡来伝説は、すなわち移住伝説であると思われ、後、天日槍(あまのひぼこ・新羅の王子)がその後を追って渡来したのは祖先の移住地であったからに外ならない。この神は筑前、豊後、摂津、出雲等、子孫の族が移り歩いたと推察されるあらゆる地方に祀られている。
 かくの如く、氏祖すなわち御祖は、血統上、あるいは族制上の本源としての崇拝観念から、それ自身単独にか、または宗祖に配して奉斎されているのだが、この他に、氏族統治上の功労を称えるためにも祀られていることが多く、この場合には、彦神を合祀するのが通例である。紀國神名帳の従四位上名草姫大神、従四位上名草比古神の如きそれである。
 古代の法が、姫彦二神を基本としたことは、姓氏録酒部氏條からも窺われる。古代の祭治形式にあっては、神宣を体する姫の職と、それを受けて執行する彦の職が絶対に必要であるところから、姫彦二神を主長とする制度が生じたのである。魏志倭人條には姉弟が姫彦一対をなしている例が記されている。
 この種の祭治形式が盛行した時代には、神言が中心となるのであるから、その体現者たる姫の職が最貴であって、主として氏族の御祖が選ばれてこれをなし、その弟または男がこれを補佐したもので、御祖を上(カミ)といい、補佐者を兄(コノカミ)と称したのは、祭治上の呼称に外ならない。主婦をカミサンというのはこの種の語の遺存であろう。カミは氏の長者の意、コノカミは氏子の長者の意であるが、後にカミは廃されて、コノカミが氏上に任じた。天智紀の古訓に氏上をコノカミと見えている。補佐者をスケと称するのも、この形式から来たもので、いわゆるカミ・スケの二主長は上代における祭治形式の特色と見るべきである。
(略)
 これらの諸例によって、氏神の中心をなすものが祖神(母または先祖の神)であることが明らかとなったが、この俗は廃棄せられた後も、信仰的には永く遺存することが普通で、蘇我氏が紀氏神社を奉祀し、若狭耳別氏が闇見社を建て、五十日帯日子王裔が式社大和国城下郡池坐朝霧黄幡比売神社を祭祀した如き、上代の貴族とその御祖神との密接な関係を想像せしめるものであるが、かかる習俗の遺存は中古にもなお存したことは、高階氏が氏神としてその母方の宗像神を奉祀したこと、橘氏が諸兄の母懸犬養橘三千代の氏神たる梅宮を氏神としたこと、平氏が桓武天皇の御外祖に縁ある平野社を氏神としたこと等によっても窺われるのである。


《注・氏神》
氏神(うじがみ)は、日本において、同じ地域(集落)に住む人々が共同で祀る神道の神のこと。同じ氏神の周辺に住み、その神を信仰する者同士を氏子(うじこ)という。現在では、鎮守(ちんじゅ)ともほぼ同じ意味で扱われることが多い。氏神を祀る神社のことを氏社という。 (「ウィキペディア百科事典」より引用)


【感想】
 祖とは一対の男女を起源とするが、上代においては「御祖」といい、それは母親のことを指している。母をオヤというが、父をオヤとは呼ばない。 
 氏族が祀る神は三種類あり、その一は「物」の神、その二は「カミ」または「カモ」という神霊、その三は地主神である。
 それらの神の中で純粋な「氏神」は、《やはり血統上の神(祖神)であって、血統の本源にある》。そこで祀られるのは姫神が多く、彦神はその補佐者として付き添う。両者の関係は夫婦ではなく、姉と兄弟、母と子といった続柄が多い。
 御祖(母親)を上(カミ)と言い、主婦をカミサンというのは、その名残だろうという著者の推論が、たいそう面白かった。
 ここでは、要するに「氏神の中心をなすものが祖神(母または先祖の神)であること」を様々な例を挙げて証明していることが分かった。
(2019.11.14)