梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

悲歌の女王・菅原都々子の《泣きべそ声》

 菅原都々子は、昭和2年(1927年)8月15日生まれ、今日で86歳を迎えた。
平成18年(2006年)に現役を引退したが、未だに、矍鑠として、老人福祉施設などでのボランティア活動を続けている。往年の歌声は望めぬとはいえ、傘寿をとうに過ぎたのに衰えを知らぬ「歌手魂」に、私は心底から脱帽する。
 さて、彼女が「歌手」を目指したのは小学校3年の時、作曲家・古賀政男の養女になり、古賀久子という名で童謡歌手としてデビューした。当時の歌声をユーチューブで聴くことができる。曲名は「時計と鼠」(松坂直美・詞、南部鉄人・曲)、そして「銀笛と羊」(東條マリ子・詞、南部鉄人・曲)。いずれも、力強い、張りのある美声で、説得力がある。前者は「天衣無縫」な茶目っ気にあふれ(おそらく長調)、後者は、どこか「哀愁を帯びた」(おそらく短調)、もの悲しい空気が漂って、いずれも昭和前期の子どもの無垢な姿が、くっきりと刻まれている。やがて、その姿は「青葉の笛」(津山英雄・詞、堀内好男・曲、昭和11年)を経て、「ふるさとの山唄」(村松秀一・詞、陸奥明・曲・昭和18年)へと成長する。その歌声は、どこまでも「清純」で「透明」、加えて、その可憐・無垢な「節回し」が、私の心に染みわたる。彼女の父、作曲家・陸奥明の回顧(「私の愛する娘。都々子のこと」・テイチクレコード・『菅原都々子全集 想い出のエレジー』・昭和42年)によれば、古賀政男の養女になった契機が以下のように綴られている。(青森在住の父親から、都々子のテストを託された大川さんという人が)〈どうせだめだろうが一軒残っていテイチクへ行こうと娘を同伴して会社の門を叩いた。テイチクもやはり冷たい、ふと文芸部長が誰かに『その娘は』と問われほっとした大川さんは、私が依頼したテストの件を伝言した。後日知ったがその時は伴奏してくれたのが名ピアニストの杉原泰三氏、興味も手伝ったのだろう。都々子が歌った、ピアニストはじろりと睨み、もう一曲もう一曲歌わせ呆然として都々子を見詰める、その時ドカドカと二階からあわただしく降りて来たのが古賀政男先生。「もう一度歌ってごらん」と優しく望まれた。(略)二曲三曲と歌い終わった時先生はいきなり都々子を強く抱き締め「僕の探しているのはこの娘だ」と言ったそうだ〉。古賀メロディーのルーツは朝鮮歌謡にあると言われているが、そのルーツを見事に歌いこなせる娘こそ菅原都々子に他ならない、と古賀政男は確信したのであろう。事実、彼女が戦後ヒットさせた「連絡船の唄」(詞・大高ひさお、曲・金海松・昭和26年)、は朝鮮歌謡であった。また、「アリラン」「トラジ」などの朝鮮民謡も、彼女は自家薬籠中のものとして、見事に歌いこなしている。朝鮮歌謡を歌う日本人歌手は少なくないが、古賀政男が看破したように、曲想を描出する鮮やかさにおいては、菅原都々子の右に出る者はいないであろう。なぜか。まず第一に、彼女の「声」である。父・陸奥明はそれを「泣きベソ声」と評した。前出の「回顧」で以下のように述べている。〈元来娘の声は一風変わっている、友達の某作曲家も君は専門家であり乍ら何故正しい発声法を教えてやらないかと真剣に忠告された、これも又尤もである。事実その頃の女性歌手陣は十中九人までクラシックの正しい発声を身につけていてオペラ歌手にしたい人達だった。ただ娘をオペラ歌手にする積もりはなかった。あくまでも所謂時代の庶民の生活に迎合する流行歌手にしたいのが私の念願である。音色も平凡な上に変わっている。十人が十人素晴らしい声の中に一人変わった声があったら否でも応でも目立つだろ、節も自由自在なら鬼に金棒と私は信じたからだった。東海林太郎さんの歌声は波が荒いので目立った。何だあの声、素人とは言い乍ら聞いている方が恥ずかしくなる、流行歌手はあの程度かねと酷評した音楽評論家があった。一年経たぬ内に天下を取ったら東海林太郎はあれで良いのだと誉めた人が一年前に酷評した評論家だったそうだが、何だか書いていてもこんがらかる様な話だ。都々子も酷評を免れない音色である事は親父が一番よく知っているが、大衆は何を好むかその献立は種々雑多、曲とか詩に恵まれて味もついたら嫌いな人も好きになるのではないかと。この泣きベソ声がある時代を築き上げた唯一の武器となった一例をお伝えしたい〉。つまり、彼女の歌声は「庶民の生活に迎合した」平凡な音色だが、そこに「ウーウーと絞り出すようなバイブレーション」が加わることによって、オペラ歌手にはマネできない「味」が添えられているのである。第二は、「自由自在な節回し」であろう。父・陸奥明もまた、当初、大作曲家を目指したが浅草のオペラ生活になじむうち、「大衆の中の私という心境から」心機一転、童謡、義太夫、浪曲、民謡、俗曲の研究に没頭、「作曲」ではなく「巷の節作り」を標榜した由、この父にしてこの娘あり、父の作曲によるヒット作は「片割れ月」(詞・河合朗・昭和21年)、「踊りつかれて」(詞・河合朗・昭和23年)、「母恋星」(詞・荻原四朗・昭和24年)「佐渡ヶ島エレジー」(詞・荻原四朗・昭和27年)、「月がとっても青いから」(詞・清水みのる・昭和30年)、「セトナ愛しや」(詞・島田馨也・昭和31年)等々、枚挙に暇がない。加えて、平川波龍竜の「散りゆく花」(年不詳)、「憧れは馬車に乗って」(詞・清水みのる・昭和26年)、倉若春生の「江の島エレジー」(詞・大高ひさを・昭和26年)、安藤睦夫の「北上夜曲」(詞・菊地規・昭和36年)等々の名曲を残している。それらの曲調は多種多様、哀歌、悲歌はもとより、大陸風、アイヌ風、牧歌風、山の手風、青春歌に至るまで、文字通り「自由自在な節回し」が展開されているのだ。だが、待てよ、それにしても、彼女の幼い日、「都々子を強く抱き締め『僕の探しているのはこの娘だ』と言った、恩師(養父)・古賀政男の作物が見当たらないのは何故だろうか。もしかして、古賀政男の心中には「都々子、自分の好きなように、自由に歌いなさい。あなたは今のままで十分、私の出る幕はない」という想いがあったかどうか・・・。後年、菅原都々子は、古賀政男の名品「新妻鏡」をカバーしているが、私は残念にもまだ聴いていない。にもかかわらず、彼女の歌声の数々は、それに勝るとも劣らない感動を、(今もなお)庶民に与え続けていることを、私は確信する。悲歌(エレジー)の女王・菅原都々子は「永遠に不滅」なのである。
(2013.8.15)