梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「高群逸枝全集 第一巻 母系制の研究」(理論社・1966年)通読・27

⑷氏別調査
【要点】
 多祖検出の基礎となるものは氏別調査である。姓氏録収載の1182氏の中には、多くの同氏を含んでいるが、その氏別数についてはまだ先人の説あるを知らない。印本の末尾、後人の書入と思われるものに、不載姓氏録姓として平氏以下を載せ、「巳上三十一氏不見之○」(四百三十六姓云々現在四百三十二姓也)とある。この四百三十数姓なるものは、あるいは氏別の数を云ったものではないかとも思う。
 私の調査は、まず同訓氏を単位とする分類から始められた。例えば、多治比は蝮とも丹比とも書くが、訓は共通である。訓の共通なのは同氏であることが多い。上代日本の書法は区々であって、訓本位になっている。私の得た最初の数も、種々の考査を経て約580氏となった。
 ここである一つを取り上げてみると、例えば弓削氏には、四個の弓削宿禰が収められ、その中の二氏は同祖で、他の二氏は各々出自を異にしている。すなわち「弓削氏三祖」の判定が与えられる。
 しかし、多祖の判定は容易ではない。元来、多祖というのは、同族(母族)の上に派生した多くの祖をいうのであるから、同訓の氏がはたして同族であるか否かの決定には、できるかぎりの吟味がなされねばならない。弓削氏を例にとれば、このなかの四氏が同族であることを究めるためには、第一に住所を見る。三氏は左京に貫し、一氏は河内に在るが、河内がこの氏の本居で、左京の諸氏は移貫の氏であろうことは、この氏に関する諸記録に徴して窺われる。また四氏いずれも宿禰姓であることも同族であることの手近な証拠である。もと此の氏は連姓の氏で天武紀13年に宿禰姓となっている。ここにはじめて此の氏は同族の氏であると推定されるのである。
 日下部氏のごときは、物部系、丹波系、有馬皇子系、伊勢国造系?、阿部系、隼人系が謂集している。しかし、此の氏は大部曲をなす氏であって、部民は同部に属しても必ずしも同族ではなく、従って出自の異なるのも当然であるという解釈が成り立つ。この場合には、真に同族と推定できるもののみを取って、他は参考の氏となし、多祖判定に基礎とはしない。
 波多と秦、大伴と大友、倭直と史、筑紫連と史、大縣主と史等、まぎらわしいものもあり、軽と軽部、真髪と真髪部、為名と猪名部、山と山辺等のごとく部民関係もあるが、一概に外形による類別はできない。波多と秦の如きは、あるいは母族において同種であるとの自覚のもとに同名を称したかとも思われるが、出自があまりにも違いすぎているから、私のものでは二分した。大伴と大友とも同様、英多と縣はもちろん別個である。史氏も別にしたが、参考條にも収めた。部民も同様参考として収めた。大私と私、大中臣と中臣、太秦と秦のごとき類は同氏として取り扱った。阿倍と阿○は考証本では同訓同氏としてあるが、私の調査では別にした。本居の関係等を考慮した結果である。要するに、氏別の決定には各々の氏の歴史に通ずることが、絶対的に必要である。


【感想】
 ここでは、多祖の検出をするためには「氏別調査」が基礎となること述べられている。「氏別」の「氏」とは何か。現代の「氏名」では苗字のことだが、古代の「氏」については、「ウィキペディア百科事典」で以下のように解説されている。


〈日本の古代における氏(うじ、ウジ)とは、男系祖先を同じくする同族集団、すなわち氏族を指す。家々は氏を単位として結合し、土着の政治的集団となった。さらに、ヤマト王権(大和朝廷)が形成されると、朝廷を支え、朝廷に仕える父系血縁集団として、氏姓(うじかばね)制度により姓氏(せいし)へと統合再編され、支配階級の構成単位となった。 氏では、主導的立場にある家の家長が「氏の上」(うじのかみ)となって、主要構成員である「氏人」(うじびと)を統率し、被支配階層である「部民」(べのたみ)や「奴婢」(ぬひ)を隷属させた。氏は、部民や田荘(たどころ)、賤(せん)などの共有財産を管理し、「氏神」(うじがみ)に共同で奉祀した。氏の名は朝廷内での職掌や根拠地・居住地の地名に由来し、多くは氏姓制度により地位に応じて与えられたカバネ(姓)を有し、政治的地位はカバネによって秩序づけられた。地名(国造)に由来する氏 -出雲氏(出雲国造)、尾張氏(尾張国造)、紀氏(紀国造)、諏訪氏(洲羽国造)、吉備氏(吉備諸国造)、葛城氏(葛城国造)、毛野氏(上毛野国造・下毛野国造)など。原始姓に由来する氏 - 和邇氏、穂積氏、蘇我氏、阿曇氏、久米氏など。朝廷内の職掌(品部)に由来する氏 - 物部氏、大伴氏、額田部氏、膳氏、日下部氏、磯部氏、金刺部氏など。天皇に姓を賜わり新たに命名された氏 - 藤原氏、橘氏、源氏、平氏、豊臣氏など。多氏、阿倍氏のように、地名起源か職掌名起源か議論がある氏もある。ウジの後には、(古代は)格助詞「の」を入れて読む。この「の」は、帰属を表す。例えば「蘇我馬子(そがのうまこ)」ならば、蘇我氏「の(に属する)」馬子、源頼朝(みなもとのよりとも)ならば、源氏「の」頼朝という意味となる。
また、氏の呼称は男系祖先を同じくする血縁集団に基づいて名乗るものであり、婚姻によって本(来所属していた家族集団とは違う氏に属する家族集団に移ったとしても氏を変えることはなかった。平(北条)政子が源頼朝の正室になっても「源政子」と名乗らなかったのはこうした考え方による。ただし養子縁組の場合はケースバイケースであった。源師房が藤原頼通の養子になっても「藤原師房」とは名乗らなかったが、源義家の四男惟頼が高階氏に養子に行ったときは、高階氏に改姓している。藤原清衡のように、もともと入り婿の形で清原姓を名乗っていたものが、藤原姓に戻したものもある。


 現代でも「同じ苗字」の人々はたくさんいる。しかし、その人たちはすべてが「親類」(先祖を同じとする血族)ではない。著者によれば、平安時代には1182個の「氏」があり、そのうち約半数の580個ほどが「同じ祖先(氏族)」であったということが述べられているようだが、「同じ氏」であると判定するためには、それぞれの氏の歴史を熟知しなければならないということしか、私にはわからなかった。また、ウィキペディア百科事典の解説は、氏を「男系祖先を同じくする同族集団、すなわち氏族を指す。家々は氏を単位として結合し、土着の政治的集団となった」と定義しており、著者の立場とは異なるようだ。その違いについても興味を持って読みすすめたい。
(2029.12.18)