梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「高群逸枝全集 第一巻 母系制の研究」(理論社・1966年)通読・23

《異系の多祖》
【要点】
 異系多祖は文献上きわめて多く、採集も容易である。現存の諸氏系図には改竄の跡が多く、上代末期頃、支那の祖先崇拝思想に影響された諸名族の間では、祖先の整理を行って一族一祖とする努力の跡も見られないではないが、不用意の間には、なお上古の痕跡を残しているから、此方の研究は比較的容易である。
 例えば古系図中ある氏人の註に、簡単に何々氏祖と書いてあることがある。その何々氏なるものが問題であって、多くは新氏ではなく、別の祖を有する既存の氏である場合を見るのである。和禰部氏系図に孝昭天皇より数えて七代の乙加豆知命註に「伊勢国に居る。飯高宿禰・壹志宿禰・伊部造の祖」とある。乙加豆知命が飯高氏の祖であることは、倭姫命世記に「干時飯高縣造祖乙加豆知命云々」とあるによって窺われるが、伊部造の祖と称するのは、貞観15年12月紀に「越前国敦賀郡人右大史正六位上伊部豊持、賜姓飯高朝臣」と見えるのに由来するであろう。しかるに、伊部造は山城諸蕃に「伊部造、出自百済国人乃里使主」とあって、帰化の民である。おそらく、これが元系であることは疑いがない。ゆえに、もし後世的に記すならば、伊部造の祖は百済系一祖で、孝昭帝裔に係くべきではないが、ここでは母家の伊部造が伊勢の飯高氏を婿にしたことから多祖を生じて、両系を祖とし、後、改名して皇別化したものであろう。とにかく、和禰部氏系図に伊部造祖とあっても、伊部造なるものは既存の百済系の氏であることに注意しなければならない。 最古の系図といわれる和気氏系図(因支首氏系図)は、景行皇子武国凝別命(註に、伊予国御村別祖、讃岐国因史首等始祖)から始まっているが、因支首というのは、系図中に母の姓であると記されているから、皇子をその始祖と書くのは後世的な記法からいえば正しくない。因支首は皇子以前からの既存の氏であるから、それにはそれ自身の固有の祖があるはずである。しかし、当時としてはこれが自然の記法であって、因支氏は、皇別系を婿にしてから祖変して、多祖氏となったわけである。この氏も三代実録貞観8年に和気氏へ改名した。
 異系多祖というのは、皇別系と諸蕃系、あるいは天神系と地祇系などというように、二祖以上の異系の祖先を併せ称している系譜であって、それらの諸系からの婿入りに起因することはすでに述べたとおりである。 
(略) 


【感想】
 著者が研究対象(の一部)としている「新撰姓氏録」は、
〈平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑である。そこには全部で1182氏姓が記録され、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に3分類されている。
 「皇別」の姓氏とは、神武天皇以降、天皇家から分かれた氏族のことで、335氏が挙げられている。代表的なものは、清原、橘、源などがある。皇別氏族は、さらに、皇親(「真人」の姓(カバネ)をもつ氏族)とそれ以外の姓をもつ氏族に分かれる。
 「神別」の姓氏とは、神武天皇以前の神代に別れ、あるいは生じた氏族のことで、404氏が挙げられている。神別姓氏は、さらに、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨した際に付き随った神々の子孫を「天神」とし、瓊瓊杵尊から3代の間に分かれた子孫を「天孫」とし、天孫降臨以前から土着していた神々の子孫を「地祇」として3分類している。「天神」に分類された姓氏は藤原、大中臣など246氏、「天孫」は尾張、出雲など128氏(隼人系の氏族は天孫に分類される。)、「地祇」は安曇、弓削など30氏がある。
 「諸蕃」の姓氏とは、渡来人系の氏族で、秦、大蔵など326氏が挙げられている。諸蕃氏族は、さらに5分類され、「百済」として104氏、「高麗」(高句麗を指す)として41氏、「新羅」として9氏、「加羅」として9氏、「漢」として163氏それぞれ挙げられる。
 また、これらのどこにも属さない氏族として、117氏が挙げられている。
(「ウィキペディア百科事典」より抜粋引用)
 したがって、ここでいう「異系多祖」とは、その一族の先祖が「皇別」「神別」「諸蕃」のいずれか二つ以上にわたって称されているということである。
 著者によれば、その事例はきわめて多く、採集も容易とのことだが、私自身は(前節で述べられていた)「同系多祖」との違いが、実感として、よくわからなかった。母方の先祖と父方の先祖が居り、その両者が片方は「皇別」だったが、他方は「神別」または「諸蕃」であった、というような理解でよいのだろうか。
(2019.12.11)