梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「急性心筋梗塞」体験記・3・《続・集中治療室》

 私は手術後の10時間(おそらく7時~17時ごろまで)、身動きできぬまま、その退屈さに必死で耐えた。身体的苦痛は、右前腕の傷、発熱、頭痛程度で大したことはないのだが、「動いてはいけない」ということが最も辛かった。一人の看護師は「病気にならなければダメです」と言ったような気がする。何もしないで天井だけを見つめていると、この部屋の中、部屋の外、屋外で様々な音がしていることに気づく。人の話し声、立ち動く物音、救急車のサイレンなどの意味はだいたいわかるが、それ以外に様々な信号音(機械音)が入り乱れて鳴り響く。周囲の音を聞き流しながら、私は「病気にならなければダメです」ということが、どういう意味なのかを考えていた。多分、今、最も大切なことは「容体が急変しないようにすること」である、そのためには、まず生活能力をゼロ(全面介助)にして、患者のエネルギーを無駄遣いしないようにしすることではないか。少なくとも術後10時間は「重病人」にならなければならない。体力を温存もしくは回復させた後、徐々に(ステップ・バイ・ステップで)身辺自立を図るという方法をとる必要がある。それを院内では「リハビリ」と称しているのだと思う。まずは、新生児と同様の段階、次に乳児、幼児、学童へといったプログラムが組まれているらしい。
 10時間後、私の様子を診に来た医師(おそらく主治医そして手術担当医)は、聴診器を当て終わると「経過は、いまのところ順調です」と言い、看護師に向かって「よし!明日の午前中に、起き上がるリハビリ。昼はメシだ!」と言い残して出て行った。早朝に病院到着以来、様々なスタッフに出会ったが、私はまだ一人の名前も憶えていない。おそらく「○○を担当する□□です」などと名乗られていたに違いないが、その場その場でめまぐるしく人が変わるので、よほどの印象がない限り、その場だけの出会いで終わってしまう。集中治療室では比較的人の出入りは少なかったが、それでも午前と午後、昼と夜と朝では人が移り変わっていく。さかんに話しかけてくる看護師もいれば、黙々と自分の仕事をこなしている看護師もいる。彼らは一生懸命に仕事をしている。しかし、相手を「患者」(第三者)として見ているか、自分に必要な「あなた」(第二者)として見ているかで、仕事の中身が変わると思う。そんなことを考えているうちに、私の立場は「新生児」から「乳児」に移ったようである。「足は動かしても可。でも首を上げては不可。起き上がることは御法度」といった《刑罰》である。
 ようやく夜になったらしい。でも、ここは集中治療室、人声や物音が途絶えることはなかったが、日付が変わってさらに5時間、午前5時を過ぎたころ、なぜか人の声や動き回る物音が全く途絶えた。点滴、酸素吸入、心電図モニターなどで「管・チューブにつながれている」身の私は、一瞬、不安になった。「もし、このまま誰も来てくれなかったらどうしよう。起き上がることはできそうだが、御法度を犯す(再発する)ことはできない」。いわゆる「見捨てられる恐怖」という心境だが、その時、私は「なるほど、寝かされている乳児が親から相手にされず、放置されているときに感じる不安とは、こういうものだったのか!」と実感できたのである。乳児にとって、いかに「環境音」、とりわけ「人の声」が「心の安定」をもたらすものであるかを確信したのである。
 私の不安もまた、午前6時、看護師たちの声や動きの音が聞こえ出すと同時に消失した。(2018.7.3)