梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

父のアルバム・1

 押し入れに、父が遺したアルバムが20冊余りある。「昭和20年8月15日以前」というタイトルがつけられた1冊を取り出してみる。冒頭には着物姿の肖像写真、見知らぬ初老の男性だが、おそらく父の父(私の祖父)であろう。昭和3年8月30日に64歳で没している。私が生まれたのは昭和19年だから、その15年以上も前に他界していたことになる。見知らぬことは当然だ。次のページには、着物姿の男児(4~5歳)、1枚は畳の上で横向きに立ち、こちらを見ている。もう1枚は6~7歳頃の男児、寝間着姿で布団に伏せ、頬杖をついている。いずれも父の幼少期であろう。父には3人の兄がいたが、なぜか一人きりの写真しか残されていない。父の母(私の祖母)は後妻に入り、明治39年1月に父を産んだが、祖父とは別居状態だったのかもしれない。事実、父と兄3人とは姓が異なっていた。その理由を、父は、「祖母は実家の継嗣者だから」と説明していたが当時小学生だった私には、意味がよく理解できなかった。要するに、祖父と叔父は本家であり、祖母と父は分家だということか・・・、いまだによくわからない。(そういえば墓所(菩提寺)も異なる。)次のページは、小学校の卒業写真だ。男児ばかり61名、教職員は20名(男15名、女5名)が威儀を正して並んでいる。教職員は最前列に座り、卒業生は全員が起立している姿からも、大正期の学校の雰囲気が伝わってくる。
 父は卒業に際して府立一中を受験したが面接で落ち、開成中学に進学した。勉学に励んだものの病弱のため愛知県の豊橋中学に転学、その後、静岡高等学校に入学した。この間の写真は23枚ある。内訳は、肖像写真3枚、風景写真8枚、スナップ写真8枚、集合写真4枚である。肖像写真は青年期、丸刈りで着物姿の「証明用」と思われる。風景写真は房州にあった別荘周辺の景色と、静岡市内の目抜き通りだろうか。スナップ写真には、娘時代の私の母、母方の祖母がはじめて登場する。集合写真は高等学校柔道部とクラス、さらに浅間神社境内の百段に一同が揃った卒業記念写真であろう。残りの1枚は駅頭らしき場所に9人(男2人、女7人)が集まっているが、どんな人たちなのか判然としない。父が下宿した家の娘が(私の)母、家主が祖母だということで、そうした所縁の人たちかもしれない。その後、父は東京の大学に進学、母も後を追ったと聞くが、父の母とは相性が合わず(田舎者と相手にされず)、静岡に舞い戻ったらしい。
 次のページには、父の学生服姿の肖像写真が3枚、母の写真はなかった。さらにアルバムは、満州へと移る。
(2019.3.13)