梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

知人A氏の「死」

 訃報が入った。パーキンソン病と闘っていた知人A氏が今日午前6時に他界した由、深く哀悼する。身の回りの友人、知人が一人、二人、三人と旅立って逝く。寂しいとはいえ、それが生きとし生けるものの宿命である。A氏の享年は63歳、私より2年後輩だが「早すぎる」とは思わない。古来より「人間五十年」と言われているように、還暦(六十歳)まで生き延びれば、「天寿を全うした」に等しい、と私は思う。「お前百まで、わしゃ九十九まで、共に白髪の生えるまで」という俚言は、それが全く実現不能な理想(夢)、絵空事だからこそ、「永久の愛」を語るキャッチフレーズとして意味があったのだ。気がつくと、今は「高齢化社会」、かつては「夢」「絵空事」であった俚言の世界は、実のところは「リハビリ」「老老介護」にあけくれる毎日、最後は「心中」「殺人」「孤独死」などで決着をつけざるを得ない実情ではないか。「人間五十年」という尺度は、人類共通の「理にかなった」尺度であり、それにしたがっている限り、人々は(死ぬに死ねない)「無駄な苦しみ」を味わうことはなかったのではないか。多少の「未練」を残しながら旅立つ、といった「程々の人生」(知足の人生)が最高ではないか、と私はつくづく思う。そのためには、「人間長生きをしたくない」「生き恥(老醜)をさらすな」「年寄りは若い者に道を譲れ」といった意識の涵養が肝要であろう。
 A氏の享年は63歳、まさに「理想的な死」である、と私は思う。加えて、A氏は、独身・独居を貫き(親族をつくらず)、誰にも迷惑をかけず(多額の財を残したにもかかわらず)、悲しませず、「独りで」堂々と「天寿を全うした」。そのたくましさ(精神力)に衷心から敬意を表したい。「死」は「生」に比べて「忌まわしい」「穢らわしい」「悲しむべき」出来事のように思われているが、私は同意しない。「生」(誕生)は、人生のスタート、「寿」「祝」という言葉がピッタリだとすれば、「死」(臨終)は人生のゴール、「お疲れ様」「よくやった」と「寿いでも」罰は当たるまい。まさに「祝・卒業」といった雰囲気が必要なのだ。(冥福という言葉もあるではないか)
 A氏の闘病生活は約十年続いたが、晩年の一年弱は「ほぼ寝たきり」で、「お決まりの」処置(気管切開、胃瘻等々、体調不安定による入・退院のくりかえし)を施され、ただ「自力呼吸」をしているだけの生活のように、私は感じていた。「自分だったら、耐えられない。早く楽にしてくれ(殺してくれ)」とパニックになるだろう。A氏は「よく(死ぬまで)耐えた」と思う。だからこそ、「おめでとう」という言葉をかけたいのだが・・・。なぜか、私の目には涙が湧いてきて止まらない。
(2009.6.22)