梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「高群逸枝全集 第一巻 母系制の研究」(理論社・1966年)通読・13

《戸主の調査》
【要点】
 孝徳天皇白雉三年紀および戸令に「凡戸主皆以家長為之」とあり、戸主は原則として宗家の家長がなった。当時の戸は、血族関係を中心としてはいるものの、戸が設定された目的は、これを公法上の最終の一単位として行政に便ぜんが為であった。戸主は、毎年戸籍計帳の基本となるべき手実を官に進め、戸内の租庸調を一纏めにして官に納めるとか、義倉の粟を輸する義務を負った。このうち、戸籍計帳は、租税徴収の基本たるを主目的とするものであるが、同時に人民の族制を改正せんとする目的も併有したことは、「父子易姓」の俗を打破して「配其父」なる語以来、戸籍面に新たな努力がもたらされたことによるも明らかである。養老の戸令が、天智天皇の9年に成った庚午年譜の永久保存を命じたのは、多分それが革新的族制観念を基準として作製された最初の全戸籍であったからであろう。 国家の法的一単位の代表者であり、革新戸籍の直接の担当者である戸主は、先駆的に自己の籍譜を改革すべき地位にあった。この観点から、戸主を調査することは、興味もあり、無意義でもないと思う。
(戸主の調査表・略)
 春部里26戸主の内訳をみれば、夫婦同籍者20、片籍者(妻の明記なくして子のみ有る者)6、同籍者76.8%、片籍が23.1%である。北九州の諸里ではきわめて同籍率が高い。雲上、雲下の両里では、同籍片籍やや相半ばしている。
 表全部の合計、251戸主につき、同籍者149人(68.6%)、片籍者68人(31.3%)、独身者32人、である。もし、独身者も妻帯者とみれば、片籍率はそれだけ高まることになる。
 片籍者および独身者の中には、妻をなくした夫も幾分かはあるかもしれない。しかし、総数251人に対して100人の鰥夫があるとは信じられない。結局、独身者を除いて算出した7割と3割の比率が当時としては妥当な数であろうと観察される。要するに、戸主にして、その3割は妻と別籍の人々であるというのは、興味深いことである。この時代の戸籍計帳に、男女を通じて、20歳以上50歳以下の婚期にある壮年者で、すこぶる独身者が多いということは、注意すべき現象といわねばならない。かかる現象は夫婦別籍の俗に原因を求むべきであろう。
 最後に不可解なのは、戸主の母57人に対して、父は下総国大島郷戸籍に1人見えているだけで、奈良時代の全戸籍を通じて、戸主の直系尊属は、祖母、母、継母、庶母の女系のみである。これについて、瀧川政次郎は「戸主の父が戸口として記載されている例は、養老5年の下総国大島郷の戸籍に唯一つ見えているだけであるから、父が戸口となるべきものの一つであったか否かは疑問である」といい、太田亮は「戸主の父というものが見えないから(唯一あれどもこれは特例とすべきである)古えは隠居という事なく死ぬまで家長権は譲らなかったものと見える」と評している。
 文中の特例というのは、大島郷の戸主孔王部徳麻呂、年参拾参歳、廃疾、とあるもので、その戸口に、父孔王部金、年陸拾歳とある。この例は廃疾者の戸主の後見役に、父が出現しているとも見れば見られようが、もしそうであれば、他の戸主たちの父も、どこかの戸籍面に伯父とか、寄口とかの名で隠れているかとも思われるけれども(次代の隠居はこれと接続するかもしれない)、なお一考すべきであって、あるいは太田説を取るべきかもしれないが、わが古語を按ずるに、祖父母に相当する呼称がなく、御祖とのみ尊称していた、その御祖は母の意であって、母を直系尊属の唯一としていたことは、疑いなきことと思われる。後代の祖母という者は、古代では御祖であり、その御祖に子および孫があったまでである。御祖の地位にいない他の母たちはイロハと呼ばれた。ここにも父を呼ぶべきイロチの称はない。兄はイロネ、弟はイロトと呼ばれた。祖父に相当の呼称は全然欠けているから、祖父の存在は認められていなかったと思われるが、この場合事実上祖父は他氏の籍にあって、その氏の御祖の兄または弟として存在したであろうと考えられる。
 要するに、直系尊属に母唯一人を奉ずることは古語より見て、わが古俗ではあったが、その古俗が大化改新後の時代にまで遺存していたかどうかについては、今後の研究にまつほかはない。
 最後に、当時の戸の内部について、一、二の私見を述べてみたい。


【感想】
 ここでは、前置きに続いて「戸主の調査」表(大宝2年、養老5年、神亀3年、天平5年における日本各地の戸数、父、母、妻有る者、妾、子のみ有る者、独身者、同籍率、片籍率を数字で表した表)が掲げられ、著者がその表を解説している。それによると、「表全部の合計、251戸主につき、同籍者149人(68.6%)、片籍者68人(31.3%)、独身者32人、である」。要するに、戸主の3割は妻と別籍である。また、「男女を通じて、20歳以上50歳以下の婚期にある壮年者で、すこぶる独身者が多い」が、それは夫婦別籍の俗習があったためである。さらに、戸主の母は57人いるが、父は1人しかいない。著者はそのことについて、当時、戸主の親は「御祖」と呼ばれた母親だけであり、父親の呼称はなかったとしている。つまり、子が独立して戸主になったとき、その子とは同居(同籍)せず、従来の家の戸主(家長)として存続したのではないか、ということである。したがって、祖母という概念は「御祖」として存在したが、「隠居」とか「祖父」という概念は、初めから存在しなかった。
 その点がたいそう興味深かった。(2019.11.8)