梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「高群逸枝全集 第一巻 母系制の研究」(理論社・1966年)通読・24

《第五節 多祖の検出法》
【要点】
⑴発見の機縁 私は古事記および国史の類を読んで、上代における母系的遺習のきわめて濃厚な印象を得ていた。けれども、それはあくまで印象にとどまるもので、証とすべき何等の物もなかった。強いて云えば、母子の同名、夫婦の別居、男子の裔が各地に散在すること、父に子多き時いずれが本系か不明なこと、父母両系の混淆、何某女と何某妹の混同、末子相続の傾向、相続者が二人以上予定されてあること、同父結婚が許され同母のそれが罪悪視された、などというような断片的な知識が私の得た全部であったのである。
 あるとき、父母同系の混淆ではないかと思われる数個の例を得た。その中の一つに、応神皇子○道稚郎子および矢田皇女の御母家に関して、記紀は和○氏、旧事紀は物部氏を挙げている。私は初め旧事紀を偽書であると教えられていたから、その記事も信じなかったが、谷田部氏との関係において必ずしも妄誕とのみも云えないであろうことを感じ、ここで系譜への疑問や興味をおぼえ、またそれへの尊敬と愛から、姓氏録、古系図、戸籍計帳、こうした書籍断簡の類を私は熱心に見たのである。そして幸いにも、古系譜における特異な諸記法を見出すとともに、最も注意を惹いたのは、同じ氏が異なったいくつかの祖先を奉じている事実の二三にしてとどまらないことであった。一氏に多祖があるのは、氏名には母系を保存し、出自に父系を記録したものではあるまいかというところに考え及んで、私は一種の緊張をおぼえた。そして、私はここにようやく古代女性史を開拓する足場を発見することができたのである。
⑵態度 私は多くの系譜や、それに関する文献の類を検するごとに、それらの文献そのものが、一種成心的な、文学的呪法を纏っている事実に気づかずにいられない。一例を挙げれば、元慶元年4月紀に「大納言正三位南淵朝臣年名云々、年名左京人、大和守従四位下奈氏麻呂孫、而因幡守正四位下永河之子也、本姓息長真人、中間冒外戚姓為槻本公、後改為坂田最後為南淵」とあり、扶桑略記にも同様の記載がある。この文を見れば、槻本氏は初め息長真人であって、中間に至って外戚の姓を冒したと読まれるが、実は初めから招婿婚で槻本家に生まれ、その氏を名乗っていたのが、槻本老の時、桓武天皇に奉仕して功あり、ついで子孫等宿禰姓を賜り、坂田氏に改名、南淵を名乗り、学名高く、朝臣姓を賜ったものであるが、槻本氏はもと槻本村主といい、天武紀に連となり、承和4年3月紀に其先出自後漢献帝後也と見えている。近江居住の帰化族である。坂田村主もおそらく一族であろう。これは姓氏録に、出自百済国人頭貴村主と云っているあ頭貴は槻ではないかと思う。百済族といっているが百済と漢はよく混同される。南淵氏は推古紀に南淵漢人請安が見えて学者の家である。
 槻本氏と息長氏の関係については姓氏録坂田宿禰條に、息長真人同祖で、天武御世、出家入道信正なるもの、近江国人槻本公転戸の女によって所生の子孫が母氏に附いて槻本氏と名乗ったとある。後、坂田と改名したのは信正の居地によるものとあるが、これは「地によって氏を命ず」る支那思想を受けた言い分であって、おそらく信正なる者は坂田氏の出であったと思われる。姓氏録に坂田酒人真人なる氏があり、息長真人同祖とある。前記坂田村主はこれらの氏の元系であろう。記伝三四にも同説がある。
 このように「中間外戚を冒す」とか「地によって氏を命ず」などの辞令は、注意を要するもので、その裏面には深刻なるべき氏族生活の実情があることを知らねばならない。
宣長が、古事を正解せんがため、古語の訓法に偉大なる革新をもたらした態度は、私たち後進の特に学ぶべき点で、例えば娶を字義に従ってメトルとよむことの古事に合わないことを指摘してミアヒとよむを正しとし、将嫁をユカナと読まずして、アハナとよむを至当としたごときは、文字による幻惑を脱して、正解に就かんがための努力であった。  (略)
 唯一の資料たるべき文献そのものが、きわめて修辞的である上に、従来の史家が多祖的現象を説明するとき、一には仮冒の語をもって看過し去らんとし、二には母の領土を得んがためその氏名を冒すという一流の説明をするのであるが、この見方によって上古の事情を類推しようとするのは不可である。特に母の領土云々の事実については、すでに述べたように、すべて氏名は財産、職業、居地等生活上の諸条件に規定せられるもので、上古の母名相続は、まだ生活が母系遺存の上に続けられていた事実の反映である。しかしそれは「母の領土」を基礎とするのではなくして、母の属する氏族全体の財産、職業、居地等に基づくものに外ならない。後代私有制が発達し、母もまた領土を持つことの可能となった時代には、その領土を承けんがために母の氏名を冒す子孫もあったであろうが、そのような類は、多く中世の荘園時代以後に見るであろう。しかも、そのような類すらも、上古の母系遺存の俗を変態的に引き継ぐものである。


【感想】
 ここでは著者の「女性史研究」に臨む姿勢(きっかけ、態度)について述べられている。
著者はそれまで「断片的な知識」によって、日本の上古は「母系制社会ではなかったか」と考えていたが、《姓氏録、古系図、戸籍計帳、こうした書籍断簡の類》を精査することで証明することができたということである。ちなみに、上古について、歴史家は以下のように定義している。〈日本史・日本神話では一般的に、神武天皇即位から大化の改新(乙巳の変が645年)まで、あるいは大和時代(古墳時代・飛鳥時代)を指す。他に歴史時代の最初期を意味する語に古代や上代があるが、それらより範囲が狭いとされる。
これに先立つ、天地開闢から神武天皇即位までの時代は、神代と呼ばれる。〉(ウィキペディア百科事典」より引用)
 つまり、日本の古代において、古墳時代から飛鳥時代までを上古という。著者によれば、その時代は(完全に)「母系制社会」であり、「大化の改新」後、(ゆるやかに)父系制社会に移行していった、ということだ。  著者は「一氏に多祖があるのは、氏名には母系を保存し、出自に父系を記録したものではあるまいかというところに考え及んで、私は一種の緊張をおぼえた。そして、私はここにようやく古代女性史を開拓する足場を発見することができたのである」と記しているが、《氏名には母系を保存し、出自に父系を記録した》ことによって《一氏に多祖》が生じるという「仕組み」が、私には今ひとつピンとこなかった。(それは、いうまでもなく、私自身が姓氏録ほかの文献を見たことも読んだこともないからだが・・・)  普通に考えて、自分を中心にした場合、親は父と母である。その父と母にはさらに父と母(祖父母)が居る。さらにその祖父母にも父と母が居る(曾祖父母)、さらに・・・、と辿っていくと、いわゆる「御先祖様」は《倍増》していくのではないだろうか。また、息子や娘もまた息子や娘(孫)を生む。さらにその孫もまた息子や娘を生む(曾孫)、さらに玄孫・・・、というように子孫もまたどんどん増えていく。その世代の「移り変わり」を、姓氏録や古系図がどのように《表現》しているのだろうか。 、
 読み進めれば、わかるときが必ずやってくるに違いない。また著者によれば、それらの文献は「成心的」であり「文学的呪法を纏っている」ので、そのまま信用してはならない、ということだ。著者は本居宣長の研究態度を手本として《実証的》な《謎解き》をしてくれるに違いない。楽しみだ。(2019.12.12)