梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「高群逸枝全集 第一巻 母系制の研究」(理論社・1966年)通読・10 

第三節 大化改新後の家族制
【要点】
《家族制度の語義》
 本書に家族制度というのは、正確には、父系的家族制度の意である。(略)
 モルガンの古代社会によれば、⑴血縁家族、⑵プナルア家族、⑶偶婚時代、⑷一夫一婦家族というように、人類が経てきた幾つかの集団形態があり、この中、偶婚時代まではだいたい母系であって、一夫一婦家族から父系家族が始まるとされているようである。
 他面より観察すれば、次のような二種類に区分することもできる。一は母系家族である。我が国の古語「腹族」(ハラカラ)という語の示す家族形態はいうまでもなく、母を中心とする兄弟姉妹の生活である。この家族では母を御祖(ミオヤ)とよぶ。次に家長としての母をトジ(戸主)またはトベという。その集団単位、すなわち腹族(ハラカラ)の集団の総称を腹と名づける。腹がいくつか集まって氏(ウジ)をなす。氏の全員を氏族(ウカラ)と名づける。二は父系家族である。父系家族の単位は夫婦である。夫婦を人倫の大本とするのは父系家族の思想であって、易の所説によれば、八卦、四象、両儀等の中心に、夫婦と子供の家族があり、各種観念の基本となっている。大化改新の家族制も、この種の思想と合するものであるということはいうまでもない。
《家族と氏族の間隙》
 夫婦は家族の成員としては緊密なる同族であるとされるが、氏族の成員としての見地からは夫婦は異族と見られていたのであって、氏姓を賜うのに夫に賜う氏姓は夫の氏族のみが同じくこれにあずかり妻はあずからず、妻に賜う氏姓もそれは妻の氏族が承けるのであって、夫はこれに対して何の関係もない。ここには二種の親族法・・家族的親族法と氏族的親族法とが間隙をつくっていた。
 文献をそのまま信ずる限り、我が国の家族制度は、すでに神代にその萌芽はあり、これに対して氏族は始め圧倒的に優位であったと思われるのは、優れた神々が皆各々の氏族を根拠として行動し、家族(その神々の妻子達)は諸地方に分散しており、その妻子達も諸地方における各々の自己の氏族を根拠として生活していたからである。その場合に父の氏が妻子の氏より優位であれば、妻子および妻子の氏人は、父および父の氏人に対して臣下の礼を取ることも多い。別、臣等はその例である。
 古い戸籍に、何々の族と称する者が多く見えている。正倉院文書大宝2年御野国春部里戸籍に「国造族石足」以下数戸があり、栗栖太里戸籍に「水主直族五百依」が見え、「阿蘇君族刀自売」、「栗栖田君族廣麻呂」等その例多く、部民の間にまじり、あたかも部民同様の低位にある様子が見える。しかし、これが単なる部民でないことは、天平勝宝2年紀に「伊蘇志臣東人之親族三十四人、賜姓伊蘇志臣族」とあるのによって明らかである。これらの臣族が伊蘇志臣といわないで、臣族と称するのは、父氏に対して地位低い氏である外子の族であるからであろう。つまり、父の氏族とその子等の氏族とに地位の差違があれば、その子等の氏人は父の氏人に隷属したのである。  族字を帯びる氏の原形を、私は「ヤツコ」すなわち家つ子なる者に認めてよいと思っている。我が国の古語で奴隷を「子」と呼ぶ俗があるのは、かつてそれが全く'「子」であったからではないかと思うのである。上層の文明種族が、未開の土民の女と婚して生んだ子、およびその子の一族を「家の子」と称して駆使したかと考えられるのである。姓氏録所載の「和仁古」(ワニコ)は大国主命六阿太賀須命之後と称しているが、同命は地神本紀に「和珥君」の祖とある。和珥君の家の子が和仁古であることは明らかである。かくて、後者は前者の従民(すべて何々子とあるのは何々氏の従民とされている)であるけれども、出自は同じであり、親族の一員である。
 氏族が優勢である時代には、その氏族の継承者は、その氏族の女の所生であり、氏族の男は、外子を儲けてその一族をあるいは奴隷とし、部民としたのであろう。後代の奴隷および部民はその基礎の上に築かれていったのであろいう。かくて少数貴族の家族網は全国津々浦々を蔽い、その大家族観念(観念のみではない。父系の正しい血統がその基礎となっている)の上に、国家の確立となるのは見易いことである。
 系譜上における家族の優位は、上下の両層から始まった。上層にあっては、祭祀および名跡の相続を徐々に独占して行った。下層にあっては大家族網が普及しつつあった。けれども氏族はなおまだそれらの活動が自己の母胎の上で行われることを要求した。
 氏族の要求は、氏族的であって家族的でない婚姻法、半氏族的の奴隷制度等に具現した。その根底に何が横たわっていたかは、諸種の学説の証明にまつほかはない。かくて半氏族的な社会形態が取られ、そのために非常に長い期間が過ぎたのち、大化改新となって、ようやく家族が白日下に立ち現れることになったのである。
 しかも氏族との戦闘が全部これで終わったわけではなく、なお多くの間隙が残されている。その間隙を埋めるのに第一の必要は「父子易姓」の打破であり「夫婦殊名」の変革であった。それは、⑴母の氏名と本居からわが子を'奪還して、父の名を付し、父の居に貫することであり、⑵妻を妻の氏族から受け取って、夫の籍に付することであった。この希望は若干貫徹した。次にみる如く、当時の籍帳は、比較的正確にこれらの諸事実を反映している。


【感想】
 アメリカの人類学者・モルガンは社会生活の進化のプロセスを、婚姻形態に注目し、①
血縁家族、②プナルア家族、③偶婚時代、④一夫一婦時代といった段階で考えた。著者もその考えにもとづいて、①から③までは母系制社会、④から父系制社会になったと想定している。さらに母系制社会の集団を「氏族」といい、父系制社会の集団を「家族」と定義している。プナルア婚とは兄弟姉妹の結婚を容認し、偶婚とは雑婚のことである。一夫多妻制もその一形態である。
 著者は、母系社会における一夫多妻制から、父系社会における一夫一婦制への移行のプロセスを、残された戸籍、系譜をたどりながら明らかにしようとしている。現代社会の原則は、一夫一婦制による父系社会なので、母系社会、母家単位のイメージが今ひとつ実感できないが、要するに「氏族」では、母が戸主になり、その娘が子孫を増やしていくことになる。息子は結婚しても母の元にとどまり、妻とは同居しない、ということだろう。同時に、それぞれの集団には「身分の差」があるので、結婚すれば相手および親族との間に「上下関係」が生じる。いわゆる「家柄」であり、昭和初期までは重要な要素であったような気がする。
   
【参考資料】
《プナルア家族》 自己の配偶者がそのキョウダイと性関係を持つことを容認する家族形態を指す概念。 19世紀の進化主義人類学の中で,アメリカの人類学者 L.H.モルガンは,性関係と婚姻結合を中心にした社会生活の進化を現代社会に存在する各種の親族名称体系から演繹 (えんえき) し,原始乱婚の状態から,キョウダイ間の性関係を容認する集団婚を経て,母系社会,そして父系社会へと単系的に進化したと考えた。プナルア婚は,このようなモルガンの進化論の中で,理論的に「トラウン・ガノワノ型」と呼ばれる親族名称体系 (父と父の兄弟,母と母の姉妹に同じ親族名称を用いる) から演繹されたものである。モルガンは,このプナルア婚を,社会進化の過程における,完全な母系社会の出現としてとらえていた。(「ブリタニカ国際百科事典」)
《八卦》 古代中国から伝わる易における8つの基本図像。すなわち、. ☰(乾); ☱(兌); ☲(離); ☳(震); ☴(巽); ☵(坎); ☶(艮); ☷(坤)(「ウィキぺディア百科事典」)
《四象》陰と陽の組み合わせから出来る「老陽・老陰・少陰・少陽」の4つ。象(しょう)は「現象」「(現われた)かたち」の意味。流派によって、春夏秋冬、木火金水、日月星辰、水火土石などの解釈もある。(「ウィキペディア百科事典」)
《両儀》『易』の宇宙生成論において使われる概念。万物の根源である太極から生じた二極である。その解釈は一様ではないが、天と地だという説と陰と陽だという説がある。 両儀は『周易』繋辞上伝にある「易有太極 是生兩儀 兩儀生四象 四象生八卦 八卦定吉凶 吉凶生大業」(易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず)に由来する。根元の太極から万物を象徴する八卦に至る中間の過程として表れる。 両儀からは四象が生じるが、その四象は、漢易では春夏秋冬の四季あるいは木火土金水の五行、宋易では陰陽二画の組み合わせ(⚌太陽・⚍少陰・⚎少陽・⚏太陰)とされる。(「ウィキペディア百科事典」) 
(2019.10.31)