梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

父のアルバム・3

 父が遺したアルバムの2冊目には「昭和20年6月~昭和29年12月」というタイトルが記されている。この時期は私が生まれて0歳8か月から10歳2か月に相当する。案の定、最初の1ページは私の乳児期の写真4枚が貼られている。私は母の死後(昭和20年3月以後)、父も応召されたので、北京に在住する、(父の友人)M氏宅に引き取られたらしい。M氏の夫人に抱かれたり、M氏宅のソファに一人座りして笑っている。日本はまもなく敗戦を迎えるが、そうした緊迫感は感じられない。その後、私はM氏の家族(M氏、夫人、長男、次男、三男)に連れられて日本に引き揚げる。M氏の三男と私は同年齢であり、まだ乳児であった。引き揚げの旅程は過酷を極め、途中で三男は落命した。M氏は、父から預かった私と自分の愛児のどちらを守るべきか、苦渋の選択を迫られたに違いない。夫人は「コーちゃんは温和しかったから、生き抜くことができたのよ」と言ったが、はたしてそうか。私と三男を二人とも連れて帰ることができなかったのではないか。私は他人から預かった「一人っ子」、三男がいなくなっても長男と次男がいる、だとすれば三男を犠牲にしてでも私を守らなければならない、と考えたのではないだろうか。
 戦後、M氏夫妻は、私を我が子のように慈しみ育ててくれた。でも、長男、次男の視線は、時折、突き刺すように鋭く感じることがあったのも、今となってはうなずける。それにしても、昔の日本人は偉かった、私にはとてもそんなマネはできないと思う。
 アルバムの2ページは戦後に移る。昭和21年8月、1歳10か月の私が、静岡にある(母方の)祖母宅の庭でたたずんでいる。11月、2歳1か月の私が、父、父方の祖母、母方の祖母に伴われて、浅間神社の境内を歩いている。次のページには昭和23年11月、4歳になった私が、父、母方の祖母と一緒に浅間神社の境内を歩いている。
 父は復員後、弁護士の資格を取った。昭和22年10月には香港に赴き、BC級戦犯の弁護に当たったという。昭和24年3月には東京簡易裁判所に奉職、裁判官となった。その時の証明写真、昭和26年4月の「裁判官特別研究」の集合写真も貼られている。
(2019.3.22)