梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「高群逸枝全集 第一巻 母系制の研究」(理論社・1966年)通読・21

《多祖発生の機縁》
【要点】
 多祖発生の機縁が奈辺にあったかの研究は、同時に、当時の婚姻関係がいかなる族間、または階級間に行われたかの説明になろう。大体において、次の5種にわけて観察することができる。
⑴中央貴族と地方豪族
 息長氏が古来多くの名祖を得たのは、近江地方における巨然たる豪族であったからで、河内には志紀氏があって、同様多くの名祖を戴いている。これらは地方豪族(国造、縣主、稲置等)の代表者というべきであろう。豪族の特性は、その根拠地の不動なこと、古代社会からの存続であること等で、貴族はその統治者として中央にある者、例えば大伴、中臣、物部等の類である。地方豪族は、人種的に佐伯、隼人、蝦夷、國神、移住者等が多く、これらは貴族の系を得ることが必要である。一方、貴族側はその政治的経済的支柱をこれら豪族に依頼せねばならぬところから、両者間に婚姻政策の盛行を見たこと、従って豪族側に多祖現象を生じたことは不思議ではない。
⑵伴造と部民
 伴造と部民に出自同じきが多い。あるいは彼らの一群が同族より成り、その氏上が造となっている場合もあると思われるが、その他のもので出自が同じいのは、両者間の婚姻によるものであろうと思う。
 物部氏の伴造は連姓で、饒速日命の後であることは天孫本紀の物部氏系譜に詳しく出ており、その他の諸系図、記紀、古語拾遺等にも見えている。姓氏録には石上氏となっており、物部條には出ていないが、部民では左京神別に「物部、同上同祖(○石上朝臣、神饒速日命之後也)」とあるのをはじめとして河内神別、和泉神別、右京雑姓等四氏を数え、この他に物部飛鳥なる複氏も見える。いずれも連氏と同祖である。(略)
 これらの部民は表面一祖を称しているけれども、それは元来からの祖ではなく、主家との婚による祖変であるから、やはり多祖氏の一であるに違いない。
⑶任地関係
 官吏または将軍として各地に派遣された者が、その土地の民と婚し、これによって、祖変を起こすことも多い。右京皇別道公は大彦命孫彦屋主田心命の後と称しているが、この氏は北陸に栄えた氏で、天平年間の越前国正税帳に加賀郡司大領道君など見えるから、加賀国造であったと思われる。(略)
 韓土人との交渉も多い。一例をあげれば、左京皇別吉田連は、孝昭天皇の後であるが、六世孫に当たる盬垂津彦の時、垂神天皇の命を奉じ、任那国東北三巴○地に治したが、彼地の宰を吉と称するをもって、氏を命じて吉氏と云った。その後奈良の田村に住み、吉田連を賜うたというのであるが、嘉祥3年11月紀には「吉田連、其先出自百済」とある。これは母族出自であろう。父氏に附くとすれば、和禰部民であるべきであろうが、姓も連姓を賜うているのは異類の出であることを区別して示したものではあるまいか。思うに、母族が挙げて祖変したものであろう。
⑷諸蕃祖変
 諸蕃で皇別、神別となった氏も多い。蘇我、物部、中臣、大伴等は、特にこれらの族との結合によって利益を得ることに腐心したのであろう。なかんずく蘇我氏の背後はほとんど漢族である。入鹿を鞍作臣といったのは守屋を弓削連というに徴すれば、母家の称ではないかと思われるが、鞍作は敏達紀に鞍部村主司馬達等がある。用明紀にその子鞍部多須奈が見え、鳥はその子である。推古紀に鞍作鳥と見え、勅して「汝祖父司馬達等便献舎利云々、汝父多須奈為橘豊日天皇出家恭敬仏法又汝○島女、初出家云々」と見える。当時最も著名な、卓越した家系である。入鹿はまた別名林臣ともいったが、この名も外戚関係の呼称であると思われる。当時の氏名には複称が多く、蘇我倉山田石川などなど、三重四重の称もある。私は、祖父の母家、父の母家、子の母家というように、系譜が母家を転移したその痕跡をとどめる称であると考えている。林氏は河内の名族で、蘇我系、大伴系、百済系、後漢霊帝系の4組を起こしている。もとは百済系ではないかと観察される。このほか蘇我氏関係には、桜井氏も皇別、諸蕃の二祖を有し、高向氏、田中氏、山口氏、早良氏等すべてしかりで、なお複氏、賜氏、諸姓等の側と併せて検討すれば、蘇我関係のほとんどすべてが諸蕃色を混ぜているといってよい。(略)
 いかに当時の諸氏が、諸蕃系と結んだか、これによって彼らの文化、技術を、自族の手に収めんとしたかが察せられるのであって、この種の氏作りが単なる姻戚関係でなく、祖変を起こさしめて、皇別、神別に列せしめる点に力強い融化力があったのである。しかもそれは、当時の婚姻制および相続制を中心とする母系制の遺習の上に、必然に出現した一般的現象に外ならない。
⑸恋愛
 多祖発生の機縁として、族を越え階級を脱した恋愛関係にこれを見ることも多い。いわゆる氏姓紛争は、多くこの種の関係から芽生えたのではないかと思う。継体紀の韓土における氏姓紛争もそうであろう。
 貞観8年3月紀に、(略)笠朝臣と観音寺の家女との恋愛に起因する紛争が記されている。良賤婚姻規定に準じて父氏に附くことが許されず、延暦の右規定廃棄とともに披訴を続けたものであろう。
 神亀元年10月紀に、「忍海手人大海等兄弟六人、除手人従外祖父従五位下津守連通姓」と見えるのは、父氏の地位が低かったによるのであり、その他、毛野氏の部下である君子部氏が、主家にあらざる氏の系を称していることがある。例えば天津彦根命之後也(貞観5年12月紀)と称し、あるいは物部斯波連(承和2年2月紀)を賜うているが、これは、近隣に見られるそれら名祖族の分布等を考えると恋愛関係の結果ではないかと思う。
 だいたいこれらの機縁によって、上下相交わり、相通じて、その間しきりに祖変を生起し、ために原始的人種別を廃棄して、漸次高等なる文化種族系統へ融合解消したと観察される。


《注・伴造(とものみやつこ)》(「ブリタニカ国際百科事典」より引用)
伴緒 (とものお) と同義語と思われる。大化改新前に皇室所有の部 (べ) ,すなわち品部 (ともべ) ,名代,子代を率い,その職業によって朝廷に奉仕した中央の中下層の豪族。その姓 (かばね) は造 (みやつこ) ,首 (おびと) ,連 (むらじ) が普通である。しかし,大伴,物部両氏のように大連となって朝政を左右する豪族にまで発展したものもある。このような伴造のうち,有力なものは令制のもとにあって,一般貴族に名を連ね,他は令制の下級官人に編成され,律令諸官司の品部,雑戸を率いて,朝廷に奉仕するようになった。


《注・稲置(いなぎ》(「ウィキペディア百科事典」より引用)
1 律令制や大化の改新以前の古代の日本にあったとされる地方行政単位、県 (こおり) を治める首長
2 684年 (天武天皇13年) に制定された八色の姓の制度で定められた姓 (かばね)で最下位の姓。実際には一度たりとも賜姓されなかったとされる。


「稲置」の内実については、
・屯田(みた)・屯倉(みやけ)に代表される皇室領の管理者ないしは徴税官の官職名
・国の下級地方組織の県(あがた)あるいは評(こおり)の長の官職名
上記2説に分かれているが、皇室の家政機関である内廷と関係の深いものであったことは間違いない。その分布は畿内とその周辺に限られ、その支配領域は律令制下の郷程度の規模である。


【感想】
 ここでは、どのような機縁(きっかけ)で多祖が発生したか、について著者は5種類の事例を挙げている。①中央貴族と地方豪族の婚姻、②伴造と部民の婚姻、③任地に赴いた官吏や将軍と土地の民の婚姻、④中央貴族と諸蕃との婚姻、⑤恋愛による婚姻である。
 ①~④までは、いずれも婚姻によって利益を得ることを目的としている。それだけでは、「原始的人種別」は変わらないが、「恋愛による婚姻」は、身分の上下が相交わり、相通じ、そのために、氏姓紛争が生じることがあったが、結果としては「高等なる文化種族へと融合解消した」とする著者の見解が、たいそう興味深かった。
(2019.12.3)