梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

父のアルバム・2

 父は東京の大学(法科)を卒業後、高等文官試験を受けたが合格せず、満州に渡った。そのため、(タイトルに「昭和20年8月15日以前」と記された)父のアルバムの後半は、ほとんどが満州時代の写真で47枚ある。中には日本の写真もあるが、おそらく送られてきたものであろう。年月が記されているのは昭和12年8月・4枚、11月・1枚、13年2月・1枚、3月・1舞、17年4月・6枚でだけである。残りは写真だけが貼りつけられているだけで、いつのことやら、どこのことやら判然としない。ただ昭和12年以前のページにも12枚が貼られており、その内訳は、母の国内でのスナップ写真が4枚、満州・ハルビンの公園に一人で立つ父、母とロシア人女性のが並んで座っているもの4枚、見知らぬ家族(姉妹・弟・母)の記念写真3枚、場所も人物も不明が1枚である。
 叔母(母の姉)の話によれば、最初に父が満州に行き、数年後に(周囲の反対を押し切って)母が追いかけたそうだ。昭和12年8月の写真は場所も「松花江畔」と明示されている。パナマ帽を被った父が、友人たちと松花江畔に遊んだ記録らしく、皆、笑顔である。川岸では水着姿の男女や日傘をさした和服の女性などなど賑わいの光景を映した1枚もある。11月は一転して厳冬のハルビン、公園の雪景色、歩道を寒そうに歩くロシア人、聖ソフィア聖堂のたたずまいが映っている。翌13年2月は、凍てついた松花江上に建てられた氷の十字架、「事務所において」と記された5人の集合写真だ。さらに3月には大連の「星ケ浦ヤマトホテル」を訪れた父の立ち姿、スーツにコート、ハットを被っている。それから4年後、17年4月の写真は、ハルビン馬家溝(マチャコ)にあった自宅前で母と友人たちが並んで映っている。母は友人の乳飲み子を抱いて微笑んでいる。
 最後のページは、銃剣を手にした軍服姿の兵士5名、塹壕でくつろぐ兵士たち、軍服の青年(証明写真)、学生服の少年(証明写真)、中国人とおぼしき男性の顔写真(証明写真)で終わっている。
 こうした映像を追っていると、おのずと私の耳には父が好んだ流行歌が聞こえてくる。「急げ幌馬車」(松平晃)、「夕日は落ちて」(松平晃・豆千代)、「国境の町」(東海林太郎)「ああ我が戦友」(近衛八郎)、「国境ぶし」(新橋みどり)、「仰げ軍功」(霧島昇・二葉あき子)、「父よあなたは強かった」(伊藤久男・二葉あき子・霧島昇・松原操)、「国境を越えて」(楠木繁夫)などなど・・・。いずれにせよ、満州は「軍国主義・大日本帝国」の負の遺産である。私の父も母も、そして私自身もその遺産とは無縁ではないこと(その責任を免れられないこと)はたしかである。
(2019.3.17)