梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「高群逸枝全集 第一巻 母系制の研究」(理論社・1966年)通読・16

【要点】
《多姓と一姓》
 有賀長雄の増補族制進化論に「日本の社会は単一の姓族より成立つ者にして、支那の社会は複氏すなわち相並等する数多の姓族より成立つ者なり」とある。
 姓族とは同一の姓を称する族の意で、(略)、姓とは母を起源とするもの・・・(略)
有賀氏の説に、支那は多姓の国で、我が国は一姓の国であるというのは、わが国民が、皇室を通じて天照大御神を唯一の御祖と仰ぐとなす事実をいうのであろう。
 換言すれば、地祇、土蜘蛛等あらゆる異姓の土民群も、我が国にあっては系譜的、血統的に融和解消して、国民の一姓化を実現したのであることは、本書の研究によっても帰結し得られる。


《姓氏録と祖》
 姓氏録は三体の制を立てたが、三体の制とは、皇別、神別、蕃別をいい、皇別は皇祖天照大御神の直系の継承者と信じられる歴代天皇の御裔、神別の中、天神は、天祖(皇祖)奉仕の神々の裔、天孫は、天祖の他の御子達の裔であり、地祇は、天祖が御孫をいわゆる天降らせる以前より土着した神の裔、蕃別は、海外諸域から帰化した民であって、中には未だ姓を異にしている部分もあるが、皇祖ならびに皇室のみもとに、相関結集をなしているさまが、よく示されている。姓氏録の一つの意義は、この国民の一姓化を表現していることにあろう。
 姓氏録の事業の第二は、父系祖宗の決定である。(これは相当難事であった)
中臣氏を例に取れば、この氏の始祖が天児屋根命でないことは、当時の社会では、周知の事実であったろうと思う。天児屋根命は、ただ遠祖中の著名な人であったに過ぎなかった。それゆえ姓氏録では、同命の三代前の祖である津速魂命にまで遡っている。しかし、まだそれ以上にも遡れたらしく、諸文献に残っている記事によって、想像することができる。古語拾遺には、神皇産霊命が中臣氏の祖であると記録され、中臣宮処氏本系帳には、高皇産霊神が、尊卑分脈および続日本紀天応元年條には天御中主命が中臣氏の祖であると書かれている。
 かくの如く、始祖の決定は難事であって、父系の限界を突破する危険がある。例えば、天御中主命は、外宮主家の神道五部書によれば、豊受姫神と同体の神であるともいう。この書は偽書であるといい、中には古伝もあろうと宣長も云っているように、一部分的には何等かの所伝もあるのかもしれない。
 姓氏録は、かくて各氏族の祖宗決定を、一定限度に整理し、始めてここに父系的系譜を確立したといい得るのである。


【感想】
 ここでは、我が国は「一姓の国」であること、姓氏録は「三体の制」を立てたこと、また姓氏録は(相当な難事であったが)父系祖宗の決定をしたことについて述べられている。「一姓の国」とは、皇室を通じて天照大御神を唯一の御祖と仰ぐ事実を指している。「三体の制」とは、皇別(天照大御神の直系の継承者)、神別(天祖の奉仕者、天祖の子、土着の神)、蕃別(海外から帰化した民)に分類することである。
 そういえば、私が小・中学校時代を過ごした東京・杉並の学区には「天祖神社」「氷川神社」があり、秋のお祭りのときは学校も「短縮日課」で、思う存分、楽しんだものである。天祖神社は天照大御神を祀り、氷川神社は素戔嗚尊を祀っているらしい。当時の私たちにとっては、単なる「遊び場」でしかなく、「テンソ」などという言葉を、意味も知らずに使っていたことを、なつかしく思い出す
(2019.11.17)