梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「高群逸枝全集 第一巻 母系制の研究」(理論社・1966年)通読・6

第二編 本論
序章 本論理解に必要なる若干の基礎的考察
第一節 上代の婚姻制  
【要点】
・我が国上代の婚姻制が婿入婚(招婿婚)であったことは、既に今日では学会においても定説となっているようである。(略)
《招婿婚の文献》
・本居宣長:古事記伝23 崇神天皇條「万葉4 君家爾吾住」「古今恋4 恋5」 
古事記伝9 「娶」をミアイと訓み、此字常には売登流と訓めど古言に非じ」 古事記伝10 八上比売條「将嫁」とあるをもアハナと訓み、ユカナとは訓まず。これらは「招婿婚」に基づく訓み方である。
・日本女史 大宝令に「嫁」とあるを、「我が国上世は常に女婚主にして男先ず女家に往く。結婚にヨメイリなく、ムコイリを以て習となす」
・大国主命の妻問いの神話
・播磨風土記 推定賀古郡條 当時は皇后も自国にいましたことが窺われる。
《土俗》
・中山太郎 「日本婚姻史」
・琉球地方の遺習(「東京朝日新聞」(昭和12年9月4日・源武雄報告)
・岡松参太郎 「母系主義と台湾生蕃」(法学新報第28巻)
《年代》
・関根正直 「太古から中古に至るまで。当時の書に婿執という詞はあるが、嫁入という語は見当たらぬ。」
・大江匡房 江家次第
・増鏡 婿入の様子
・建武年間  古今著聞集に嫁入婚の記載がある。
・中山太郎 日本紀略の天慶三年條が嫁入婚に関する文献の初見
*要するに、太古より中古に至るまでの間は、一般の俗として婿入婚の時代であり、鎌倉時代前後に及んで完全に終了したと見るべきではあるまいか。
《一夫多妻》
・上代日本の婚姻制にあっては、婿入婚と並んで一夫多妻婚であったことが通説となっている。
・大国主命 妻覔神話
・後漢書東夷伝倭人條 
・魏志東夷倭人伝條  一部の男性史家の中には、この書中、同時に記載されている卑弥呼の事蹟等に対しては熊襲隼人等蕃族の例であるとなして無視する風があるのに、この一夫多妻の記事のみは日本民族の古俗であるということを他愛なく受け入れる風があるのは何故であろうか。按ずるにこれは後代の父系的一夫多妻の観念からきたものである。しかし、古代の一夫多妻は、後代のそれとは全く類を異にした母系単位の現象としてはじめて正しく理解さるべきものである。此派の人々は、例えば大国主命の婚姻形態を後代の一夫多妻と同様に見て古代女権の卑小を論ずるが、事実はむしろ反対であって同命を取り巻くいわゆる妻妾群は、後代のごとき無能力な存在ではない。いずれも一国一氏の女君であることは、高志の淳川比売にせよ、因幡の八上比売にせよ、その他出雲風土記、播磨風土記に見える諸姫が、その土地土地の名を負う貴族であり、女神である例を見れば肯けるのである。(略)古代の一夫多妻は、女君達、一国一地方の領主達との結合であるところに意味があるのであって、すなわちここに国作り工作が成就するのである。
・我が国の上代に国家組織の条件としてこの方策が活用され、軍事を以てする征服戦は、むしろ副次的な補助工作であったことは注意すべきである。これはいかなる原因に由来するかといえば、四面環海の小島国であるため、民族の緊密が保たれやすく、従って殺伐な流血戦に依頼するよりも、婚交和協の方策が、より希望された故と見るべきであろうが、これを可能ならしめたものは、当時未だ我が国の婚姻及び相続が、母系制的のものを原則的に保存していたゆえと断じ得る。すなわち嫁入婚にあらず、婿入婚であった一般の婚姻制、ひいては父系の胤は分散し、母系によって一族の相続が実行されたという当時の成俗が、かかる政策を可能ならしめたものであるが、ここに重要な問題は、そうした実情にあって、しかも一方《父系観念が芽生えていた》ということである。例えば、大国主命が、九州より北越に至る驚くべき広汎な域に亘ってその土地土地の女君と婚し、その女君達の族中に181人の子を分散的に産み落とし、その子達がその族族を相続するとして、そこへ父系観念が芽生えていたとすれば、その181人の子は各所属の族を率いたままで、大国主命の裔を称し、出雲神族の支脈として相結束するであろう。(略)古代の一夫多妻主義すなわち国作り工作は、実際の族制が母系であって、意識的に父系が芽生えているという状態の社会にのみ可能である。我が国上代の社会は実にそれであって、ために、国家の統一がかえって円滑に行われた。(略)
・氏作りもまたこれに同じく、竹内宿禰の大氏族は決して一腹より生まれたものでなく、九州より韓土にかけての婚姻、蘇我系諸氏人の漢種との結合等によって得られたものである。部作りももちろんこれと同工作であって、阿倍氏、毛野氏等の蝦夷部曲における、物部氏、中臣氏等の帰化部曲における等枚挙にいとまなく多い。
・上代の一夫多妻主義は、後代の玩弄婚に比べれば、極めて生産的な婚姻であるといってよい。あるいは政略結婚の起源であるとすることもできるが、後代の同種の結婚と違うのは、後代では権勢家がその女子を他族に与えることによって政略結婚が成立するのに反し、上代では名族の男子が各地方の族に婿入することによって成就するのである。後代の女子が自族を離れるのに反し、上代の女子は内を守って離れず、名祖を戴く族の女子の如きは、しかるべき同系結婚によってその血統を絶やすまいとする。これに反して男子は然らず、名族であるほど活発な異族結婚を行い、それら諸他の族を自族の祖下に結合せんとするのである。女性が魏志のいわゆる「不妬忌」であって純潔を旨とし、男性が能動的で一夫多妻主義である所以は、右の如き事情に由来するのである。


【感想】
・いよいよここから本論が始まる。初めに本論を理解する前提として、「若干の基礎的考察」が述べられている。その一は、婿入婚(招婿婚)という婚姻形態が、上古から中古の時代まで続いたということである。現代で言えば、「男が女の家に養子に入り、女の実家の姓を名のる」という形である。中古の時代とは平安末期から鎌倉中期くらいまでであろうか。たしかに「源氏物語」の主人公・光源氏は正妻の葵上と同居はしていない。父の桐壺帝とも同居していない。母系社会とは、その家の戸主は母であり、相続者は娘ということだ。では、男はどこで暮らすのだろうか。元服するまでは母のもとで、それ以後は独立するのだろうか。その二は、一夫多妻主義である。これも上古から中古の時代までは、母系単位の現象であり、著者は「古代の一夫多妻主義すなわち国作り工作は、実際の族制が母系であって、意識的に父系が芽生えているという状態の社会にのみ可能である。我が国上代の社会は実にそれであって、ために、国家の統一がかえって円滑に行われた。」と述べている。つまり、父系社会(家父長制)による一夫多妻主義は、男が後継者を確保するため、あるいは権力を誇示するためのものであり、女を無能力な存在に貶めるが、母系社会における一夫多妻主義は、国家の統一を円滑に行う土台になった、ということである。
・著者は「我が国の上代に国家組織の条件としてこの方策が活用され、軍事を以てする征服戦は、むしろ副次的な補助工作であったことは注意すべきである。これはいかなる原因に由来するかといえば、四面環海の小島国であるため、民族の緊密が保たれやすく、従って殺伐な流血戦に依頼するよりも、婚交和協の方策が、より希望された故と見るべきであろうが、これを可能ならしめたものは、当時未だ我が国の婚姻及び相続が、母系制的のものを原則的に保存していたゆえと断じ得る」と述べている。
・なるほど、戦後の日本においても、家族の雰囲気は「家父長制」から「マイホーム主義」に変貌、男が女の実家「近く」で暮らすことも増えつつあるようだ。
(2019.10.22)