梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

父のアルバム・4

 2冊目のアルバム3ページ以降は、昭和26年4月、私が小学校に入学した(手製の)記念写真から始まる。私はそれまで母の実家である静岡の祖母宅で、母方の祖母、父方の祖母とともに過ごしていた。父の就職も決まったので、父方の祖母と私を引き取って、東京での生活を始めようとしたのだろう。とはいえ、住居は容易に確保できる時代ではなかった。ひとまず、父と祖母の遠縁に当たるF家に同居(居候)させてもらう。F家の家屋は、玄関(三畳間)、台所、六畳間、八畳間(床の間)、納戸、便所、縁側、庭を備えた平屋であった。そこにF家の家族4人(F夫人、長男、次男、次女)と父、祖母、私の3人、合わせて7人が、ほぼ1年半の間「ひしめいて」暮らすことになった。F夫人の夫はすでに亡く、父よりも年上、長男、次男、次女は成人だったが、夫人は私の母、長男、次男は兄、次女は姉の役割を十分に果たしてくれたと思う。そうしてスタートした東京生活の断片が以後の写真から窺われる。井の頭公園で父と私のツーショット、深大寺付近を散策する父、次男、私のスリーショット、F家宅に遊びに来た長女の長男と私のツーショットなど、いずれも、かつては裕福だったF家に、かろうじて残ったカメラで写したものだ。私はF夫人を「Fのおばちゃん」、その長男を「Iちゃん」、次男を「Sちゃん」、長女を「I子さん」、次女を「S子ちゃん」と呼んで、馴れ馴れしく親しんだが、親族としての絆意識は薄かったよう思う。
 父は社交的で交流範囲は広かった。アルバムに貼られた以後の写真を見ると、そのことがわかる。満州時代の友人、その家族との交流スナップ、裁判官研修の集合写真、恩師招宴の記念写真、「はしか快復」した(病後の)私とF夫人、Iちゃん、Sちゃんの集合写真
Iちゃん、Sちゃん、父と私で行った房州(保田、館山、那古船形)の写真、F家の新年会に集まった一同の集合写真、静岡の祖母宅で亡母の甥・姪(私の従兄姉)家族と私の集合写真、静岡高校同窓会の集合写真、満州時代の友人M氏とその夫人、父と私で浜離宮、向島百花園、水神社を散策した時の記念スナップなどなど・・・。
 私は昭和26年に上京、27年7月までF家の家族とともに暮らしたが、その後、祖母と父の3人で間(八畳間)借り生活が始まった。左隣(八畳間)は大学生3人(東大生、早大生、慶大生)、右隣は沖縄出身の若い看護婦だった。両隣の人たちとの交流も楽しかったが、ある深夜、学生の部屋からうめき声が聞こえてくる。「アイタタタ、アイタタタ・・・・」。慶大生らしい。父は「盲腸炎に違いない。すぐに医者を呼ぶように」と他の学生に指示した。まもなく救急車が到着、慶大生は搬送されて行き、数日後、彼はニコニコして帰宅した。一同は「よかった。よかった。」と喜んだのだが・・・。今度は、祖母が流行性感冒に罹った。当時の医療はほとんどが往診で看護は家族が担う。祖母の溲瓶を操作する(下の世話をする)のは私の役目、その色が薄黄色から橙色に変わり、まもなく祖母は他界した。昭和27年の大晦日から28年の元日にかけてののことである。それから1年後昭の和29年12月、椿山荘で行われた祖母一周忌のスナップ、集合写真でこのアルバムは終わっている。法要参列者はF夫人、その長男Iちゃん、その親類、父の友人・M氏夫妻、父の長兄、次兄夫人、間借りの大家・A氏、そして父と小学校3年生の私である。(2019.3.23)