梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

知人A氏の「葬儀」譚

 昨日、今日と二日間に亘って知人A氏の葬儀が執り行われた。A氏の享年は63歳、現役を退職して五年が経過、病気療養中の見舞客も四、五人ほど、親族といっても従姉妹の二家族(五、六人)だったので、「通夜の客」は二十人程度、多くても三十人を超えることはないだろうと思っていたが、あにはからんや、職場の同僚・上司を含めて「親しい関係者」が六十人も訪れた。今さらながら、A氏の「他人思いの」「温かい」人柄が偲ばれ、深い感銘を受けた次第である。今日は、告別式。勉強熱心だったA氏のこと、冥土でも「ノート、鉛筆」は欠かせないだろうと、彼が最後まで居住していた「介護施設」の居室に取りに行ったところ、受付で職員が開口一番、「Aさんが注文してあった、英会話のテキストブックが届いています。目を通さずに逝かれてしまったので、さぞ残念でしょう。どうか、棺の中に入れてあげてください」だと・・・。人生、最後の最後まで「勉強しよう」と努力された様子に驚嘆した。「人は生きたように死んでいく」(「死に様イコール生き様」)とは、よく聞かれる言葉だが、なるほどA氏は「最後まで努力の人」だったのか・・・。告別式の会葬者は、親族五名、一般六名であったが、初七日法要を含めて四十五分間の読経、終了後、一般六名がそれぞれに弔辞を述べたので、通夜以上に充実したひとときであったと、私は思う。はたしてA氏には聞こえたことだろうか。しばらくして棺を閉じる。思い思いの品物、祭壇に飾られていた生花も盛りだくさんに納められ、棺(A氏の亡骸)は荼毘に付された。およそ1時間後、A氏は「骨灰」と化し、(会葬者全員が骨上げして)「壺」の中へ導かれた。火葬場の職員が「これは《喉仏》、これは《上顎》・・・」などと御託を並べるのを、なぜか皆「神妙に」聞いているので、私も同調せざるを得ないのだが、心の中では「そんなことは、どうでもいい」と叫んでいる。そもそも人間、死んでしまえばそれまで、生きているうちが「華」ではないか。聞くところによれば、「火葬」は「骨が残るように仕上げる」そうな。あほらしい。なぜ、そんなに骨が「大切」なのだろうか。私が死んだ「暁」には、何一つ残らない程度に「焼き尽くして」もらいたい、と思う。さすれば、「遺骨を埋葬する」などという無駄な作業は省略されるではないか。寺の墓地、霊園の類も不要、「供養料」「管理費」などと言った得体の知れない出費も不要、そもそも「金がなければ死ねない」ような「世の中」は改めなければならない。
 とはいえ、A氏は資産家、終末の医療、葬儀、埋葬に「いかほどの出費」をしようとも、それをA氏が望むなら、文字通り「故人の自由」であることを「納得して」帰路についた次第である。
(2009.6.24)