梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

W先生の話

 W先生の服装は、いつも決まっていた。黒のジャケットに、黒ネクタイ、白のワイシャツに黒ズボン。夏場は、さすがにジャケットは省かれ、ワイシャツも半袖に替わったが、黒ネクタイと黒ズボンに変わりはなかった。
 周囲の人は、「どうして、あの先生は、毎日お葬式みたいな恰好をしているんだろう」と訝ったが、誰も直接、問いただすことはなかった。「おしゃれは黒に始まって、黒に終わるんだよ。あの先生は本当はおしゃれなんだ」と、言う人もあったが、本当にそうだろうか。私は、「どうしてもW先生に直接、おたずねしたい」という気持ちが高まった。しかし、W先生は「雲の上の存在」である。私は敬愛しているが、いつも「仕事」のことで「お叱り」を受けてばかりいた。「あなたのレポートには『チアノーゼに罹り』とあったが、それは間違い。チアノーゼとは、血液中の酸素が欠乏して、皮膚が紫色なる状態のこと言うのだから疾患ではない。だから、『罹り』という表現は適切ではない。もっと勉強をするように!」という「お叱り」が皮切りであった。私自身のプライドが邪魔をして、「お叱り」を受けるたびに「近づきにくい」存在になっていった。ただ一回だけ「お褒め」をいただいたことがある。中学二年の生徒の親が「娘が学校に行けない」という心配で相談に来た。私は「ゆっくり休ませてあげなさい。学校がすべてではないでしょう」と応じたのだが、その話を聞いて、W先生は、一言「適切な助言でした」と評してくれた。私はうれしかった。
 W先生は、いつもポケットにクルミの実を忍ばせ、それを取り出して見せながら、話をする。 
 「皆さん、このクルミの実を、道具を使わないで割るにはどうすればよいと思いますか?私たち人間の手では絶対に割れないでしょう。でも、この実を土の中に埋めておくだけでよいのです。大地のぬくもりと潤いが、この実を自然に割り、発芽を導いてくれるのです。子どもを育てるのも同じです。私たちのぬくもりと潤いこそが、子どもの可能性を導き出すことを忘れてはいけません」
 W先生の自宅には大きな庭がある。しかし、その庭にはほとんど手を入れない。「荒れ放題」で雑木林のようだった。それが「自然の姿」であり、近所の「外聞」などいっこうに気にしない姿勢が、W先生の生き方だったと思う。ある時、野良猫が迷い込み、自宅の押し入れの中で出産したという。それでも、先生は自然に任せていた。涼しい顔で、「『飼う』のではなく『同居』しているのです」と言う。「猫は利口ですよ。妻と食事をしていると、そばに来ますが、絶対に食卓に飛び乗ったりしません。私たちが餌を提供するまで、じっと待っているのです。このまえなど、二階の寝室に来て激しく鳴くものだから、何だろうと思って階下に降りてみると、ガスストーブがつけっぱなしになっていました。『危ない』と教えてくれたんですね。もしかしたら、猫の方が人間より利口かも知れません」
 私自身、五十に近くなり、どうにかW先生の傍らで親しく話せる立場になった。
ある夏の蒸し暑い日、その日もW先生は白のワイシャツに黒ネクタイ、黒ズボンという服装で会議に出席した。終わった後、簡素なパーティーが開かれることになっていたので、私は、年来の「謎」をどうしても解き明かしたいと思った。
 本当に、W先生は「おしゃれ」なのだろうか。どうしても、私にはそうは思えない。W先生には、「色を選ぶ」などという気持ちがはじめから存在しないのではないか。W先生にとって、「自分自身を色で着飾る」ことなど思いもよらない。自分のことを考えるまえに、まず「相手」が存在している。その「気持ち」を受け入れ、理解するためには、自分のことなど考える余裕がないのだ。W先生自身の「色」は、「白か黒」、そのいずれでしかないのだ。シャツは白、それ以外は黒、自分を着飾るエネルギーがあるなら、それを「相手」のために費やしたい、それがW先生の本心ではないだろうか。だからこそ、W先生は、庭の樹木(クルミ)や野良猫との「交流」が可能なのだと思う。
 パーティーもそろそろ終わる頃、私は思い切ってW先生の席に近づき、ジュースを注ぎながら、年来の「謎」を問いかけた。私の考えを、先生はじっと聞いていたが、最後に一言、微笑みながら答えた。
 「あなたの考えは、当たっているかも知れませんね」(2006.9.7)