梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「高群逸枝全集 第一巻 母系制の研究」(理論社・1966年)通読・26

B 招婿始祖
【要点】
 古系譜に始祖または祖とあるものの中には、きわめて特異な古風な記法がある。例えば現存の最古のものであるという和気氏系図をみよう。


《武国》【凝別皇子】(伊予国御村別祖貞観8年改又□乙木□讃岐因支首等始祖)・・津守別命・・和○乃別命(之)・・子阿佐乃別命(之)・・子弟子乃命(之)・・子麻呂子乃別命之・・(子)真浄別君(之)・・子忍波之(娶因支首長女生)・次輿呂豆之(此二人随母負因支首姓)


 この系図については、武国凝別皇子に註して、伊予国御村別の祖、讃岐の因支首等の始祖とある。伊予国御村別の祖はとにかくとして、讃岐の因支首等の始祖とあるのは古系譜特有の記法であるから、注意したい。系譜は、真浄別君までは別(ワケ)のカバネであるが、その子の忍波の註に「因支首の長女に娶いて生む」と見え、また「此二人、母に随いて因支首の姓を負う」とあって、忍波、輿呂豆の二子からは讃岐の因支首となるが、この因支首は母家の氏姓である。因支首の固有の祖は、太田説によれば、垂仁帝裔であるというが、この系譜では忍波、輿呂豆の時から祖変して、同氏同姓の因支首ながら、その祖は景行皇子武国凝別皇子となったのである。同氏名にて二三祖を派生するというのは、このことである。既存の因支首を、あたかも新設の氏であるかのように、武国凝別皇子は因支首等の始祖と註する記法は、古系譜特有の記法で、この種の記法を熟知した上でなければ、古系譜を読むことは絶対に不可能といってよい。記紀、姓氏録、旧事紀等に所載の諸氏出自を集めて見れば、この記法の多種多様に驚くであろう。これは仮に招婚始祖と名づけてもよく、すべて古系譜に始祖とあるのは、その氏に所生の男女、または母等を除けば、招婚始祖の場合が多い。
 この記法が後代に至っては理解されなくなり、例えば、紀朝臣系図の21代行義(紀国造家に婿入した人)の註に紀国造始祖とあるのは誤りであるという申し立てを、国造家からしていることなども見える。日前国縣両大神宮書立に「紀氏は国造家元本に而、京家之紀氏(○紀朝臣家)は、国造家より後に出来候ものに御座候云々、京家之紀氏は武内宿禰を以元祖と致候事にて、国造家の紀氏とは別流に御座候、但し前條之通、奉世(○38代国造)に男子無之故、婿行義を養子として家督致して候て、国造職勅任有之候、行義は武内宿禰より21代之苗裔に付、此時初而京家之紀氏と血脈相交申候、紀氏大系図に、行義は紀伊日前宮国造始也と有之候は誤にて御座候」。
 これによれば行義の頃までも、まだ古系譜の招婚始祖の記法は残っていたのであろう。
 以上は、古系譜の記法のうち、特殊な一二の点を見たに過ぎないが、いずれも多祖検出上の重要なポイントとなるものである。


【感想】
 ここでは、まず著者が例示した「和気氏系図」の理解に努める。そのためのポイントは①和気と別はともに「ワケ」と読み、同じ意味(賜ったカバネ)である。②因支首も、「イナキノオビト」と読み、賜ったカバネ(官職名)である、という点だろうか。
初めに登場する【凝別皇子】および「和気系図」について「ウィキペディア百科事典」では以下のように解説している。抜粋引用すると、


〈『日本書紀』によれば、第12代景行天皇と阿倍氏木事の娘の高田媛との間に生まれた皇子とされる。(略)最古級の竪系図になる園城寺蔵『和気系図』(円珍俗姓系図/円珍系図、承和年間(834年-848年)の書写)では、武国凝別皇子を景行天皇の12男としたうえで、その子について水別命・阿加佐乃別命らの名を載せる〉


〈武国凝別皇子について、『日本書紀』では伊予国の御村別(みむらのわけ/みむらわけ)の祖と記されている。一方『先代旧事本紀』「天皇本紀」では、武国凝別命を筑紫水間君の祖とし、武国皇別命を伊予御城別・添御枝君の祖と記している。


〈『日本三代実録』貞観8年(866年)10月27日条によれば、武国凝別皇子の後裔を称する讃岐国那珂郡・多度郡の因支首秋主(いなきのおびと あきぬし)ほか同族8人が、「和気公(わけのきみ:和気氏)」姓を賜り改姓したという。この改姓は貞観9年(867年)2月16日付の「讃岐国司解」によっても知られる。


〈『和気系図』では武国凝別皇子から御村別・因支首・和気公に続く系図が載せられており、そのうち前述の水別命が伊予の別公の系統、阿加佐乃別命が讃岐の因支首(のち和気公)の系統と見られている。そして後者の讃岐和気公からは、円珍(智証大師、俗名を和気公広雄)が輩出されている。


〈伊予地方に残る伝承では、武国凝別命は平定のため伊予に派遣され、神野郡(のちの新居郡、現在の愛媛県新居浜市・西条市ほか)に拠点を置いたという。そしてその子孫は一帯に広がり、「別」の子孫が治めたということから「別子(べっし)」の地名が生まれたとも伝える。旧神野郡一帯では、武国凝別命の神霊を祀る神社として特に伊曽乃神社(西条市中野、式内名神大社)が知られる。また風伯神社(西条市朔日市)社伝では、武国凝別命が海上守護のため風神の龍田神(奈良県生駒郡三郷町の龍田大社祭神)を奉仕したのが創祀という。そのほか飯積神社(愛媛県西条市)では、『和気系図』が武国凝別命の孫とする十城別王を祭神の1柱としている。


 以上の資料をもとに、「和気氏系図」を私なりに読み取ると、武国凝別命の子は津守であり、その子は和○、その子は子阿佐、その子は子弟子、その子は子麻呂、その子は真浄と続き、いずれも「別」(和気)という姓を名乗っていたが、八代目の忍波と(弟の?)輿呂豆は、因支首に婿入りしてその姓を名乗るようになった、ということになる。 
 そこまではどうやらわかったが、著者が最も重要視している「きわめて特異な古風な記法」がどのような記法なのか、後代の一般的な記法とはどのように違うのか、についてはまだ、ほとんどわからない。(2019.12.15)