梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「死ぬ」ということ・2・《悲報》

 つい1か月前(1月9日)、私は〈そうか、そうか、K君は健在か、訃報は無しか!私は「一気に」元気を取り戻した。K君も(元気とはいえないが)生きている、オレだって「もう少し」がんばらなければならない。そしてK君と再会したい。でもそれは無理だろう。お互いに年を取り過ぎた。今はただK君の健在を寿ぎ、「ありがとう」と感謝することしかできないが、新年早々の朗報を無駄にしないよう、一日一日を大切に生きていきたいと思った。〉と綴ったばかりなのに・・・。(その朗報が悲報に変わってしまった。)
今日、K君の訃報が届いた。先日もH先生の葬儀があったばかりなのに、「そういう時代」になったことを噛みしめなければならないということか。K君は小学校6年間、高校3年間、大学4年間をともにした旧友だ。高校の文芸部ではお互い詩作に励んだ。
◆ガラスのうた(K君)
<ガラスのうつわ 残り火に 淡く光って そのにおいは 一層つめたく ふるえて 酒に溺れる 妖しいガラスが 今日もまた 哀しく 両手で 砕いたガラス 酔った目に  その破片が うつろに刺さる 今日も 明日も また ガラスは 冷たい>
◆学校(私)
<学校が 死んでいる 青春とか云うツツガムシに 巣くわれて 学校が たしかに死んでいる コンクリートの 泥の校舎に 私は激しい戦慄をおぼえる 室には 白いベッドとカーテンを気にする 裸の少女が 待っている 死んでいる学校は もう動揺しない 私は帰りたいと思う> 
 大学卒業後、K君は美術出版社に就職、その後、美大の教授になった。数年前の小学校クラス会では、「オイ、まだ死にそうなやつはいないか?」などと周囲を笑わせていたのに・・・。もう何も言うまい。謹んでお悔やみ申し上げます。


■・・《友がみなわれより先に旅立つ日「昭和・平成」その先見えず》・・
(2019.2.3)