梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「高群逸枝全集 第一巻 母系制の研究」(理論社・1966年)通読・19

【要点】
《祖の没失》
 祖の没失とは、ある氏族が旧祖を没失して、新祖へ転移する現象をいうのである。例えば、ここにAなる母家があるとして、このA母氏の固有の祖はA祖神である。しかるにB母家より来投せる婿によってA母家の族中にその子等が生まれる。するとその子等は、氏名はA氏を承け、A氏の職を嗣ぎ、A族人と緊密に結合しているにかかわらず、出自はA祖神を離れて、父B氏の奉ずるB祖神に転移する。かくてその子等の世代では、A氏なるものは固有出自を没失して、B出自を称する氏族と変化するのである。さらにその祖変せるA氏の女へC母家より婿を招く。かくて生まれた子等はC出自へ変化する。ただ氏名のみは依然A氏であることを通例とする。なぜかというに、出自のみは変化するが、住居、職業、財産等は古代の母祖より承けたままを変化せず、代々相承けているからで、従って母祖の氏名は、その居地、財産、職業等を根拠として、永く継承されるのであり、また実際の血統も母系を伝って連綿と流れるのであるが、ただ父系観念の芽生えのゆえに出自のみが転々と変化するのである。この状態を正しく理解することにこそ上代系譜ならびにそれとの関係下にある社会事情認識のあらゆる鍵が存する。
 父系観念が芽生えて後の出自は、変化に変化を重ね、嘗て同地にあり、同職に従事した名族が、別に移住した伝えもないのに、数代後に至っては忽焉と没失して、異祖の族がこれに代わっている事実がある。
〈丹波氏を見る〉
 丹波氏は、いわゆる丹波族を形成する名族であって、四道将軍の一たる丹波道主命を出し、開化帝裔をもって知られている。しかるに、それほどの名族が、どこへ移住したという伝えもなく、忽焉と没し去り、姓氏録には、左京諸蕃に丹波史を収めるのみで、その出自は、後漢霊帝八世孫孝日王とあり、これが後に丹波宿禰、丹波朝臣となる氏で、後代丹波氏というのは、すなわちこの氏に外ならない。
 丹波氏の基部をなす丹波母族の本居は、抄に丹波国丹波郡丹波郷とある地で、郷名の丹波が、この族の発祥地であり、これを基礎として、郡名をなし、国名を形成したことは、想像に難くない。丹後というのは、和銅以後の行政区割による便宜的な国名で、以前は丹波丹後の全地方を丹波と云ったのである。この族には、丹波氏の外に、竹野別、竹野媛等の名がある。この名は、抄に竹野郡竹野郷とある地名に因むものであるが、その昔おそらく丹波郷と同区域であって、式社に竹野神社あるを見れば、丹波族の統は、この祭神の造たることによって、相続せられたものであろう。そしてその歴代の祭主を竹野・・と呼んだのであろう。もともと但馬から丹波にかけてのこの辺には国境がなく、総じて竹野の地名でよばれたものであろうという説がある。これに従えば、丹波族はこの時、○徳皇子当芸志比古命を御婿として奉じ、ここに文献上第一の父祖を得たわけであって、こののちこの族は、○徳皇子当芸志比古命裔であることになったのであろう。その後、丹波族第何代目かの竹野媛の時、名族丹波氏となる日が来た。開化紀に「天皇納丹波竹野媛生彦湯産隅命亦名彦蒋○命」といるされているのがそれで、古事記には「此天皇娶旦波之大懸主名由碁理之女竹野比売生御子比古由牟須美命」とある。
 丹波大懸主由碁理の女竹野媛・・由碁理(ユゴリ)とは、湯坐(ユエ)、湯母(ユモ)などと同職であろう。碁理は、石凝姥、国凝別等に同じく「作り」の意、由碁理は湯作りであって、水に関した職である。その女竹野媛の所生を彦湯産隅命というのも、由碁理を承けた御名で、これによって御母丹波の大懸主の族に成育し、その職の名も承け給うたことが観察される。かくてこの王を奉じた丹波族は、この時以来前祖を没して開化帝裔を称したのである。
 しかも、ここに注意すべき事件が相次いで起こってきた。その一は、記開化段に「娶葛城之垂見宿禰之女鸇比売生御子建豊波豆羅和気王云々、丹波之竹野別等之祖也」とあるもので、葛城地方の女の腹に生まれ給うた開化皇子建豊波豆羅和気王が、丹波之竹野別の祖になられたと云うのであるが、これはもちろん、竹野別という新氏を創めたのではなく、丹波族の世襲名の相続者となられたか、または丹波の女と婚されて、その所生の御子が右の相続者となった意味に外ならない。この結果はどうなるかといえば、丹波族が同時に二祖(彦湯産隅命と建豊波豆羅和気命)を併せ奉ずることになるのである。
 次に第二の事件は、四道将軍丹波道主命の登場である。同命は記開化段によれば、開化第三皇子日子坐王の御子で、母は近江の神女息長水依姫である。初め近江の母家に居り、後、丹波族の女河上之摩須郎女と婚し、丹波族に婿として入家せられたと想像される。その理由は、垂仁紀に「道主王者、稚日本根子太日日天皇之孫、彦坐王也、一云、彦湯産隅王之子也」とあるからで、彦坐王の御子であると同時に、一説に彦湯産隅王の御子であると伝えるのは、丹波族を相続せられている彦湯産隅王の御子分、すなわちその族の御婿となられたことを意味する。第二の理由としては、道主王の御子は垂仁紀に見える丹波五女であって、その中に世襲名相続者たる竹野媛という名が見える。これによっても、道主王が丹波族の婿君たられたことは疑いがない。
 道主王の登場と併せて、丹波家の出自は、開化三皇子(彦湯産隅、彦坐、建豊波豆羅和気の三皇子)の系となった。上代史上有名な丹波氏は、この三系の丹波氏に外ならない。彦坐王は道主命の御父であることころから、その直接の裔河内の日下部氏等をも併せて丹波氏というらしいが、その意味でなら、姓氏録にも26氏ほどの丹波氏は見えている。本居の丹波に開化三皇子の系が栄えていた頃は、これらの氏も、それに呼応して栄えていたのであろう。
 しかし、国造本紀の記載に従うならば、丹波大懸主が、国造に昇格したであろう時代、すなわち成務天皇の時代には、この族の上にはさらに新しい祖変が始まっていたらしく、かつての道主系の丹波氏こそ丹波国造たるべく思われるのであるが、思うに尾張氏からの系を迎えて、出自を尾張氏の祖火明命に改めたとき、国造補佐となったのであろうか。後、天平9年の但馬国正税帳に「丹後国少毅無位丹波直足島」、延暦2年3月紀に「丹後国丹波郡人正六位上丹波直真養」などと見えるところによれば、尾張系国造の治所は、その昔の皇別丹波氏のをそのまま引き継いでいることが窺われる。
 いずれにしても、このようにして○徳天皇、開化天皇、火明命へち祖変し、そのつど前祖を没し去った丹波氏は、後代に及んでは、ほとんど丹波史の独占となったのである。この系は丹波氏系図に「阿智王・・高貴王・・志拏直(於本朝生住丹波国賜坂上住)・・駒子・・弓東・・其弟孝日王、佐波史祖(○但波史ならん)」とある。また弓東より数えて五世康頼に始賜丹波宿禰姓とあるが、この人は針医博士で、医心方三十巻を著したというから、その功による賜姓であろうかと思われるけれども、国名を付した宿禰姓は、多く諸国の国造に賜うを例とするから、あるいは国造家の最後の相続者であろうか。
 要するに、丹波族の最初の父祖当芸志比古命から、何代目かの家名相続者竹野媛による開化皇子への祖変、さらに神別尾張氏への出自の変化、最後に蕃別への転移となった経路を考えれば、上代祖変の一様式なる没祖の典型が、ここには、充分に明示されていると思う。とにかく、後代のごとく、一の父祖を奉ずる族が大挙して移住し、そこに新氏を建て、かつ永久にその一の父祖を維持するというような家系法とは反対の相続法がここには見られるのであって、もし世代毎に名族からの婿入りがあれば、世代毎に父祖を変えることが常態であり、竹野・・という一定の家名を相続する家が、三四の異祖を併せもつなどという、思議しがたい奇現象も、当時としては、恒例であったのである。招婿婚の制度が、この過渡期の家系様式に、有力な援助を与えたことはいうまでもない。
 没祖の例として、今ひとつ但馬氏を見よう。(以下略)


【感想】
 家系図と言えば、男系に注目して、父から長男、次男、三男へと続き、さらにその男児たち(父にとっては孫)へと広がっていく。あるいはその家の相続者だけを明示して、例えば、徳川家康→徳川秀忠→徳川家光→徳川家綱・・・のような場合もある。     現代では、家の単位は「夫婦」であり、男(婿)の所に女(嫁)が入り、同居して、子どもを育てるという「核家族」というスタイルが定着している。その感覚で、古代史を見ると、とんでもない誤りを犯すと、著者は警告しているようだ。
 当時は、まず「家」ではなく「氏」という集団を形成して生活する。「氏」の中心は女性であり、母が権力者である。なぜなら、父は同居していないからである。父は母の元で暮らし、通ってくるだけである。子どもが生まれると、その子は母の姓を名のり、娘は他氏から婿を迎える。そうした時代(氏族社会)が続いたが、やがて、婿が嫁と同居するようになる。嫁の実家に「婿入り」するのだ。さらに、子どもが生まれれば、その子に父の姓を付ける。そうしたことが繰り返されることによって、今、生活している氏族集団の姓が変化していく、つまり本来の姓が失われ(嫁の姓が失われ)、婿の姓が新たに興ってくるという現象について、著者は丹波氏の変遷を例示しながら、述べている。
 現代でも、「養子縁組」というスタイルがある。結婚後、男性が女性の氏を名乗り、女性の家族と同居する。人気漫画「サザエさん」の家族(イソノ家)は、サザエさんの実家(フグタ家)の家族と「一緒に」暮らしている。その方が自然なような気もするが、実は日本の古代は、より強力な「女系社会」であったとすれば、なるほど、当然のことかもしれない。(2019.11.27)