梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「高群逸枝全集 第一巻 母系制の研究」(理論社・1966年)通読・28

《第六節 国造と多祖>
【要点】
 記伝七には「国造は何れも久邇能美夜都古と訓べし。其由はまづ上代に、諸仕奉人等を総挙るには、臣連伴造国造と並云へり。又敏達巻に、臣連二造とも有て、二造者国造伴造と註せり。さてその国造は諸国にてその国の上として、各其国を治る人を云戸なり」とあり、倭訓栞には「後世の国司の如し、其国の宮社を祭れば、みやつこの名ありといい、(略)日本紀に諸の仕奉る人等を総挙るには、必ず臣連伴造と並べいへり云々、孝徳の御字に国造を郡司にせられしは、神事に預かる事なかりけん、文武の時に神事をも兼行はせられたり、かくて後神事に言よせて公事をかくことありしかば、桓武の時より又国造は神事のみにて、別に郡司は置かれし也といへり」とあり、姓序考には「国造も伴造も、ただ造とのみいふべきを、さいひては二種の造のあるなへに、ことのまがれば、云別べく科に、国事に預かれるには国字をそへ、職事に預かりて伴雄を率るには伴字をそへいへるもの也云々(略)とみえしもて、其国事に預かれるものなるを思へ」とある。
 国造の制は、神武御字にも見えているが、一般には成務御字前後に至って、設定されたらしい。それより大化改新までの間は、国造時代であって、行政的、経済的に、全社会の支柱となって活動した。特に経済的には、当時の部民制度の地方における管理者、又は協同者として、重要な地位にあったから、中央貴族等は、たえず婚姻和協によって、かれら国造を、自族下に結成せんと努めた。それゆえ国造をめぐる多祖現象はきわめて顕著なものがある。
 国造の多祖現象は、甲乙二種の形態を取っている。
⑴甲は、文字通り多祖を並存している国造である。つまり外部の諸名族からの婿入りによって、所生の子等が、各自の父祖の出自を並存している場合である。
⑵乙は、国造自身が、自域内外の諸他の部民の造や、周囲の小国造、縣主、稲置等に自胤を与えて、それらを自族下に結合している場合である。毛野氏のごとき名祖を戴く有力な国造にこの現象は多いが、また聖徳太子時代に、武蔵方面の伴造であった物部連の一族が祖変を起こして、武蔵国造の同族となったと云うように、中央から派遣された部民の造が、地方国造家へ同族化するに至る経路には、中央の総領造家の滅亡が原因となる場合も少なくない。
 以下に、それら国造の多祖現象を見よう。序次には、大体において陸奥、関東、本州中部、近畿、中国、四国、九州の順とし、補任年代に従ったが、一二の変則もある。引用文に出典を略したものはすべて国造本紀である。


【感想】
 国造について、ウィキペディア百科事典では以下のように解説している。
〈国造(くに の みやつこ、こくぞう、こくそう)は、古代日本の行政機構において、地方を治める官職の一種。また、その官職に就いた人のこと。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。 訓の「みやつこ」とは「御奴(みやつこ)」または「御家つ子」の意味とされる。〉
 この節では、国造職にある氏族の「多祖現象」について述べられる。その現象には二つの形態があるということだが、私にはその違いがまだよくわからない。また、著者がなぜ「多祖現象」に注目しているのか、それが母系制にどのようにかかわっていくのか、ということもよくわからない。いずれにせよ、まだ序章であり、本論を理解するための基礎的な知識として理解しておかなければならないということなので、ともかくも「知識」として知っておきたい。楽しみだ。(2019.12.29)