梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「高群逸枝全集 第一巻 母系制の研究」(理論社・1966年)通読・7

《母家単位》
【要点】
・婿入婚を条件とする一夫多妻婚は、各母家を根拠として行われた。大国主命の国作りは、その母出雲の稲田姫の居及び族を根拠として行われ、その御父素戔嗚尊の活動も御母の根国を根拠としている。宣長は古事記伝21、安寧天皇條に、皇居浮穴宮の所在を、御母なる師木縣主祖河俣昆売の居と御同所であると推定し、天皇の御名の師木を負いませるをも、御母の師木に因みありとし、書紀の安寧二年條に「遷都於片盬是謂浮穴宮」とあるを評して、「凡て書紀に、遷都とあるは、ただ漢籍にならいて記されたるものにして、実は後世の如く引遷されたるには非ず、上代に、御代ごとに都のかわれるは、大方上代には皇子たちも、御父天皇と同大宮には住坐ずて、多くは別地に住坐りしかば、御父天皇崩坐て、皇太子天津日嗣所知めせば、其元より住坐る郷、即ち都となれしなり。さるは諸臣連たちなども、多くは各其本郷に住めりしかば、都城と云いても後世の如く、こよなく大きになどはあらざりしかば、何地にまれ、元来住坐る宮ながらに、天下治ししなり。されば此記などのごとく、坐某宮治天下と云るぞ実にて、古言には有ける。」といっている。このように、皇居の如きも御母の地と御同所に定め給う慣わしであったとすれば、宣長のいう諸々の臣連の本郷も、略々母家に属したであろうことは、疑う可らざる事実としなければならない。
《古系譜の読み方》
・古系譜の読み方は叙上の如き観察の上に立つ時、始めて可能なのである。ここに神功皇后の御母葛城高額姫の系譜を見よう。古事記に、
「天之日矛、多遅摩之俣尾が女名は前津見に娶いて生める子多遅摩母呂須玖、此之子多遅摩斐泥、此之子多遅摩比那良岐、此之子多遅摩毛理、次に多遅摩比多可、次に清日子。此の清日子、當摩之羊斐に娶いて生める子酢鹿之諸男、次に妹菅籠由良度美、故れ上に云える多遅摩比多可其の姪由良度美に娶いて生める子葛城之高額昆売」
 とあるが、古系譜の例として、母の氏名とそれを承けた子の氏名とが、この系譜にも判然と顕し示してある。この系譜には、二つの母家が見えている。一つは多遅摩氏名乗る族であるが、この族の女前津見の許へ天之日矛が婿入りして、多遅摩母呂須玖を生んだ。母呂須玖が多遅摩氏を名乗っているのは、即ち母の氏名を嗣いだものである。そののち三代はすべて多遅摩氏を名乗っているから、これらは皆、多遅摩母家に生まれた者であろう。然るに、清日子に至って、長躯して當摩の羊斐に婿入りし、酢鹿之諸男、妹菅籠由良度美と云う一男一女を生んだ。當摩は和名抄に大和国葛下郡當麻とある地で、羊斐の所生の子等が、酢鹿(または菅)氏を称しているのは、それが當麻の族名であるからに他ならない。後、用明天皇の御字にこの地から妃飯女之子を出し、皇子當麻王、次に妹須賀志呂古郎女(記)を見る。即ち、さきの酢鹿及び菅と、その皇女の須賀とは共に同じ族名である。此氏は、當麻の羊斐あるいは當麻王と云うように、當麻を称する場合と、スガ(後年の蘇我氏また此れである)を名乗る場合と、葛城を名とする場合とがあるのであって、用明妃飯女之子を書紀には葛城直磐村女廣子とあり、ここでは此家は葛城氏となっている。また須賀志呂古郎女は同書には酢香手姫皇女とあって、伊勢の神宮に奉仕すること三代、推古天皇の時に至って葛城に退いて薨ぜられたとある。すなわち葛城は御母の地である。また御兄の當麻王は、書紀には麻呂子皇子とあり「此當麻公之先也」と見えている。姓氏録所載當麻真人氏はこの皇子の後である。御兄妹共に御母の地葛城に住まわれ、御母の族名を承けられたことが窺われる。かくのごとくスガ、當麻、葛城等の氏名を此族は有している族である。かくて、但馬氏の清日子が葛城氏に来たって生んだ子が葛木氏を承けて名乗り、また葛城の地に住むことは、母家本来の当時の制度にあっては、至極当然なことであって、その清日子の女に、さらに清日子の兄比多可が来たって婚した結果の所生が葛城之高額姫
であるのももとより自然である。葛城之高額姫は、その御名に御母の族を承け、その御居もまた御母の地葛城に坐すことが窺われるのである。
 しかるに、古系譜に対する正しい読み方を解しない者は、現代の眼と心とによって、右の系譜を眺めるのであるから、妻の名(子の立場からは母の名)が、この系譜の二所に出ている意味を理解しないばかりでなく、但馬国に天之日矛の家が樹立され、その家に妻前津見を娶り、次に大和の當麻より羊比を娶り、その羊比の生んだ女をさらに娶って葛城之高額姫を生んだと解するであろう。すると高額姫は但馬に坐すはずであり、多遅摩氏を承けられるべきであるのに葛城とあるのは少しおかしいと思い、ここに種々の付会の説が作られるのであって、昔より今に至るまでの国文学、国史等の諸学者の間に種々の奇説が行われているのはこの理由によるのである。
(略)
 ここに注意を要するのは、叙上のごとき婿入婚の社会、すなわち母家単位の社会にあって発生した父系観念は、それ自体未だ族を有しない場合も、《系は有しうる》ことである。父祖たる天之日矛に始まった系は、但馬母家に入り、次いで葛城母家に移るというように、相異なるいくつかの族を転々経由しながら日矛より引かれた系としての記憶、または記録は伝え得るのである。古系譜はすなわち右の如き事情を裏づけて記された記録に外ならない。それゆえ、最も完全に近い古系譜であるほど、妻の居所と氏名及びそれを承けた子の居所と氏名とが詳記されている。 (略)


【感想】
・ここでは、古代社会の単位は「母家」であったこと、それを前提として「古系譜」を読まなければならないことについて述べられている。読み方の例として、著者は古事記から、神功皇后の母・葛城之高額姫の系譜を引用している。そこに登場する人物は、まず①天之日矛という男、彼が結婚した②多遅摩前津見という女、その子の③多遅摩斐泥という女、その子の④多遅摩比那良岐(男女不明)、その子の⑤多遅摩毛理(男女不明)、その子の⑥多遅摩比多可(男)という順である。その弟、⑦清日子という男が、⑧當麻之羊斐という女と結婚して、⑨酢鹿之諸男(男)と⑩菅籠由良度美(女)という一男一女を生んだ。 以上の⑥多遅摩比多可と⑩菅籠由良度美が結婚して葛城之高額姫が生まれた、ということである。(⑥と⑩は叔父と姪の関係?)
 その時は母系社会だから、A多遅摩、B當麻(酢鹿、菅)という二つの家族が存続・継承されているということが分かる、と著者は述べている。
・いずれにしても、父系社会になれきっている私たちにとって、古系譜を読み取ることは難しい。しかし、観点を換えることで、新たな発見があるかもしれない。次からはいよいよ本論が展開される。楽しみである。 (2019.10.25)