梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「高群逸枝全集 第一巻 母系制の研究」(理論社・1966年)通読・12

《妻の所属》
【要点】
 子の所属でさえ名実のまだ伴わない過渡時代であるから、妻の所属はなお一層不徹底たるを否まれない。前掲呉原家の戸籍をみても、戸主五百足には七男六女があり、その中、36歳が2人、26歳が2人、18歳が2人と3組の同年者があり、末子は5歳であるところをみると、明らかに妻妾の存在が察しられるにもかかわらず、その一人すらも記載されていない。同じく次男鈴麻呂は5歳、3歳、3歳の三人の父であるが、これにも妻の名はなく、その弟倭麻呂は3歳の女の子の父であるが同じく妻の記載がない。房戸宗方君族入鹿にも妻はなくて三男が見え、丸部安太にも10歳、5歳の小子があるのに妻の名は見えない。これらの妻たちのすべてが死んでいるとは思われないが、その所属こそ注目に値しよう。現に、この戸籍にも、櫟井朝臣氏の妻刀自売、鰐部連氏の妻黒売が、櫟井、鰐部の籍に貫せずして、自族たる呉原の籍に付いている。また、戸主の女には36歳、26歳等が独身のままで記録されて居り戸主の姉刀自売の女も36歳と30歳で独身であり、その妹黒女の女も37歳で独身、その他に寄口(寄住者)らしい二人の女がいずれも62歳、36歳の年長者でいながら独身であるが、これらのすべての女性たちが、事実独身であるとは思われない。多分夫も子もあることと想像されるが、それらは他氏の戸籍面に、妻なき夫、母なき子等として記載されているであろうことが考えられる。かくの如く、妻の所属はいまだすこぶる非家族的であって、夫婦に貫しない者も多い状態である。 
 この状態について、
●福田徳三は、日本民族の渡来の際、戦闘の必要から婦女の数を少なくした、
●新見吉治は、一夫多妻の俗があったから、婦女間の嫉視を避けるため、ある婦を別居せしむる必要があった、女子は労働力として貴重せられたるが故に、その家父が手放さなかった、
等の説を述べたが、
●渡部義通は、澤田吾一の正倉院文書その他の調査研究の結果を引用して、婦女子人口は少なくなかったことを根拠に福田の説、新見の嫉視説を否定、「まず夫婦別居の慣習が、それ以前の時代に存在したことの有無を検討すべきであり、記紀を通じて見る限り、そこには常にこの習俗が存在した」と、結んでいる。
 大宝2年、養老5年、神亀3年、天平5年の戸籍、計帳で「同籍の夫妻・妾」「片籍の男・女・庶母」を見ると「片籍の男」はその子のみを自籍に記載しているもので(呉原家の諸男)、その背後には、男とほぼ同数の隠れた妻があり、この妻は別籍に(多くは独身の形で)記載されているもので、すなわち男と別居している妻である。同じく「片籍の女」は、呉原家における戸主の姉刀自売、黒売の如く、その子と共に自族の籍に付いているもので、これも夫と別居しているものである。 
 春部里の比率は、妻の同居率41.9%、別居率58.0%である。栗栖太里に至っては、同居率25.0%、別居率75.0%である。古代史上関係多い地方では同居率が一層低い。筑前の川辺里は同居67.2%、別居32.7%、豊前の塔里、丁里も高率である。これらの地方は川辺勝、塔勝、丁勝等、帰化族かと推察される族の本居である。   全体の比率は、同居が41.6%、別居が58.3%で約4割と6割に当たる。これが当時の一般率であろう。さらにいえば同居者中に、後代とすこぶる趣を異にした者がある。それは、⑴妻がその親族(母、兄弟姉妹など)を伴っていることで、妻の族と夫の族との合籍とみるべきかも知れない、⑵同籍夫婦中に同氏名の者が多い。これも右の場合のように、隣接同氏間の結合ではあるまいか。後代のごとく妻が単身他氏中に乗り込むことは、未だ我が国の俗としては容易でない事情にあったのではないかと思う。かく観察すれば、右二例は同籍ではあっても、純粋な後代的な同籍ではない。妻はなお自族中に起居しているからである。それゆえこの二例を除去すれば、夫婦同居率は一段と低下するであろう。いずれにせよ、妻の所属は、未だ夫婦に貫するよりは、自族に付く数がはるかに多い事情にあった。  


【感想】
 「家族」とは、父系社会の一夫一婦制を前提とした集団であり、日本古代においては、まだ「家族」は存在していなかったことがわかる。私は前節で「戸主、その母、姉、弟、子供たち(男、女)、孫まではわかるが、戸主の妻、息子の嫁(孫の母)はどこにいるのだろうか。」という疑問をもったが、ここまで読んできて、わかった。父、息子や娘(男・女と記されている)、孫は同居しているが、母は実家にいる(別居している)ということだ。著者は「妻が単身他氏中に乗り込むことは、未だ我が国の俗としては容易でない事情にあったのではないかと思う。」と記している。要するに、大化の改新では、それまでの母系社会(氏族社会)を父系社会(家族社会)に改めることが試みられたが、夫婦同居率は4割ほどであったということがわかった。 
 また、「①依當直時売 年陸拾貳歳 老女 和銅五年逃 ②宇治部廣津売 年参拾陸歳 丁女 上唇黒子 ③戸宗方君族入鹿 年漆拾歳 耆老 左頬黒子」の3人は、著者によれば「寄口」(個人または家族ぐるみの寄住者)らしいということで、なぜ唐突に登場したかという、私の疑問は解けた。(2019.11.5)