梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

コロナワクチンは《人体実験》

 今や、為政者、専門家、マスコミ関係者の《努力》により、全国津々浦々まで「コロナ恐怖症」が《蔓延》しつつあることは、たしかなようである。フランスの「専門家会議」では、「決して国民を油断させないように、不安を駆り立てること」の重要さが強調されたそうだが、日本の専門家もそれにならって、感染拡大による医療崩壊の危機意識を煽り立てている。それもこれも、いったい何のために?。いうまでもなく「ワクチンと称する薬剤」の《人体実験》を、《滞りなく》行うためであろう。ワクチンは乳幼児、学童期に接種するのが自然であり、これまではそうであった。しかし、今回の薬剤は医療従事者を除けば、高齢者から打とうとしている。なぜだろうか。その説明がない。高齢者が重症化しやすいから?、高齢者を守るため?・・・。何よりも怪しいのは、《無料で打つ》という一点である。何故、無料なのか? 現金の給付やマスクの配布は「実害がない」が、薬剤注射には「副作用」が伴う。無料だからといって「副作用」の被害が減免されるわけではあるまいに・・・。まして、もし副作用で被害が生じた場合には「国が保障する(現金給付する)」などというのだから、ますます怪しい。まさに「タダほど高くつくものはない」のである。
 感染拡大を強調して国民を「コロナ恐怖症」に追い込むのは、滞りなく「ワクチンと称する薬剤」の《人体実験》を行おうとしているためだという、(政府、専門家、マスコミ関係者の)《魂胆》はわかった。では次に、その《人体実験》の目的は何か、また、それによって誰が、どのような利益を得るかという点が問題になる。すでに政府、専門家、マスコミ関係者が「相当の利益」を手にしていることは明らかだが、その他に、彼らをコントロールしている「X」が存在することも確かだ。「X」が個人か、法人か、組織か、グループかは定かではないが、その正体を暴かなければ「コロナ恐怖症」から解放されることは《永遠に》ないであろう。
(2021.4.11)

「愛知県知事リコール不正署名事件」の《真相》・1

 経済ジャーナリスト・須田慎一郎氏が、3月29日と4月2日の「虎ノ門ニュース」で、「愛知県知事リコール不正署名問題」についての取材報告をしている。彼は、リコール運動を展開した「おやめください大村知事、愛知100万リコールの会」の代表・高須克弥氏、事務局長(会計責任者)・田中孝博氏、リコール運動を応援する名古屋市長・河村たかし氏に直接インタビューしている。その報告を見聞すると、以下のことがわかった。
①リコール運動のきっかけは、昨年5月「名古屋市があいちトリエンナーレ芸術祭実行委員会から負担金の支払いを求めて訴えられたので、河村市長は大村知事のリコールをしたい」と思った。
②河村市長は自分の思いを高須氏に伝え、リコールの賛同を得た。
③河村市長は武田邦彦氏にリコールの応援を依頼し、同意を得た。
④高須氏は百田尚樹氏、竹田恒泰氏、有本香氏にも応援を依頼し、同意を得た。
⑤高須氏はリコール運動記者会見の当日に(名古屋市民は自分の他にはいなかったので)
代表にならざるを得なかった.。
⑥6月11日に、名古屋市のポスティング会社・ジェネシスから「署名ハガキの配布を無償で行いたい」という申し出があり、河村市長は「ありがたく」依頼した。
⑦ジェネシスの下請け会社が人材派遣会社を通してアルバイトを募集し、不正署名を行った。
⑧そのアルバイトに対して1500万円の支出があった。
⑨高須氏は⑥⑦⑧の経緯について詳細を知らなかった。騙されたと言う。
⑩河村市長は⑦⑧の経緯について詳細を知らなかった。騙されたと言う
⑪田中事務局長(だけ)は①~⑧のの経緯について詳細を知る「立場」にあった。が、「アルバイト代は出していない」、不正署名の詳細は「知らない」と言う。
  以上から、「不正署名問題」は、田中事務局長(もしくはその黒幕・同調者)によって仕組まれたであろうという察しはつく。はたしてその《真相》がいつ明らかになるか。まもなく名古屋市長選が始まるので、それが終わるまでは無理ということか。
 それにしても、武田邦彦氏、百田尚樹氏、竹田恒泰氏、有本香氏といった《錚々たる論客》が《全くの蚊帳の外》に置かれている構図は《お粗末》の極みである。各自の《わきの
甘さ》を嗤う他はない。
(2021.4.9)

旅日記・「峨々温泉」「青根温泉」

2008年4月30日(水) 晴(25℃)
 午前10時、タクシーで「峨々温泉」へ行く。日帰り入浴1000円、浴室・浴槽が「宿泊客」(湯治客)とは違うような感じがしたが、泉質そのものは「おだやか」で逸品といえるだろう。露天風呂は底面が「ぬるぬる」していて、「清潔感」に欠ける。もっとも「こんな夏日」に露天風呂に入ろうとする方が無理といえるかもしれない。再びタクシーで青根温泉に向かう。ここでは、不亡閣、青嶺閣が有名だが、あえて「流辿」という旅館に入る。なぜなら、ここも「演劇グラフ」の「不定期開催劇場」として紹介されていたから。従業員に尋ねると、「6月7月公演」(劇団南座・座長南竜花)があるという。残念。どんな場所でやるのかたずねると、現場を案内してくれた。なんと「地下1階の大広間」、暗転のためには「窓のない部屋」が合理的(暗幕不要)だということがよくわかる。従業員は、幕、舞台、大道具(玄関)まで見せてくれた。人気劇団が公演すれば、旅館全体が「満室」状態になることは、必定。一度、そんな様子も見聞しなければならないだろう。日帰り温泉の「浴室」「泉質」は申し分なく、気分を満喫することができた。脱衣所のロッカーに「流辿いちろく」という署名で「色紙」が張られていたが、そこにかかれている文言に興味をひかれた。以下のとおりである。①心のままに、②心の家出がやってくる、③やってみせ、やらせてみて、言って聞かせてほめてやる、④きびしさは人を救うことが多く、やさしさは人を殺すことが多い、⑤他人へのきびしさより、自分へのきびしさを、⑥自分が人に言われてカーッとなったら、それは正しいかも。
今日で4月が終わる。この日誌を綴り始めてから4ヶ月、「断煙」をしてから20日が過ぎた。「綴る」ことは苦にならないが、「断煙」は苦しい。つくづくと、「自分はこれまでタバコを吸うために生きていた」ことを実感する。それが、この20日間は正反対。「タバコを我慢するために生きている」ことを実感する。今日我慢すれば、明日は少し楽になるだろう、というのは私にとっては大きな間違い、苦しさは「死ぬまで」続くに違いない。今、読んでいる「五代友厚」(織田作之助)の中で、五代才助の同志・松木洪庵の言った言葉を思い出す。「五代、君は容易ならざることを言うたぞ。生きるのは大変じゃ。死ぬるのは楽な道ごわすぞ。海へ飛び込めば、そいでよか。男子必死の時に当たって、こげん容易か道はごわはん。しかし、生きるのは苦しい道じゃ。苦労もせずばなりもはん。笑われることも覚悟せずばなりもはん。生きるのは大事じゃ。けっして煩悩じゃなか」
 とりたてて珍しい見解ではない。私にとって大切なことは「どう生きるか」ではなく「どう死ぬか」である。大西巨人は、夫婦が心中する作品(題名は失念)の中で、歌舞伎俳優・市川団蔵の「死に方」(実話)を絶賛している。彼は「役者を引退した暁には、誰にも迷惑をかけずに、この世からも引退しよう」と「独りで思っていた」。そして、そのことを「見事に」やってのけた。「引退披露の後、墓参(四国巡礼)を済ませ、鳴門海峡に投身自殺した」ということになっている。「謎」の部分が「迷惑をかけているではないか」という異論もあるだろう。しかし、「なんだか割り切れない」という思いを周囲に生じさせたり、行方不明の捜索を強いたり、という程度なら十分に許されてよい、と私は思う。
 テレビのニュースを見ていたら、上野動物園のジャイアントパンダ・凛々が死んだという。年齢22歳、人間でいえば70歳に相当するいうことだが、死の前日の「写真映像」を見る限り、「寝たきり状態」とはほど遠く、矍鑠とした日々の中で臨終を迎えたように、私は思った。(永井荷風に似ているかも知れない)動物でありながら「見事な死」である、というより、人間以外の動物は、おしなべて「見事な死」を遂げるといった方が、正しいのではないか。
 さて、「どう死ぬか」で最も大切なことは、まず、「独り」になることだと思う。「孤独死」という言葉があるが、「死」はすべて孤独であり、人はだれでも「独りで」死んでいく。(「家族に看取られて」とか、「救命措置がとられたが」とか、「大往生」とか、いろいろと形容されることはあっても、それらは「生き残った」側からの「一方的な」評価なのであって、死んでいく側にとっては「独り」であることに変わりはない。だとすれば、「死」の前に「独り」になっておくことことが肝要ではあるまいか。ところが、「独り」になることは容易ではない。人間は社会的動物であり、「独り」では生きていけないからである。誰でもが、家族、友人、恋人等々と「共に」生きている。そのネットワーク(しがらみ)の中に「身を置く」ことによって、はじめて「安定」できるからである。「独り」になるということは、そのネットワークから「離脱」することであり、「しがらみ」を断ち切ることに他ならない。きわめて「不安定な」状態になる。いわゆる、「精神性疾患」なる代物(いわく「統合失調症」、いわく「躁鬱病」、いわく「心因反応」、いわく「神経症」、いわく「認知症」等々)の「前提」もしくは「結果」の状態と酷似することになるだろう。人間にとって「死」とは、畢竟「コミュニケーションの断絶」のことだと、私は確信するが、したがって、「独り」もしくは「精神性疾患」状態は、「社会的な死」ということもできる。肉体は生きているが、精神は死んでいる、という言い方もできるだろう。ただし、「独り」イコール「精神性疾患」ということにはならない。常識によれば、「精神性疾患」は、肉体は健康だが、精神は病んでいる、という言い方の方が適切かも知れないからである。(私自身は、そう言い換えてみても大した違いはないように思われるが・・・)いずれにせよ、肉体は生きているが、「コミュニケーション」は断絶しているという状態をつくり出すことが、「どう死ぬか」という課題の第一歩だと思う。 そのためには、家族、友人、恋人等々と「共に」生きるのではなく、そのネットワークから「離脱」、その「しがらみ」を断ち切らなければならない。その「苦しさ」に耐えることができるか。「見事な死に方」を目指す者にとっての大きな関門になるだろう。
(2008.4.30)