梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・63

■言語理解の透明性
【要約】
 音声は談話の聴取においては“透明”だといわれる。このことは、“話”という語がつぎのような広い意味範囲にわたって用いられる事実からも立証される。
まず、“話”という語は、言語行動の一形態としての意味に用いられる。
⑴ 活動ないし能力(2歳児は十分話ができる) 
⑵ 形式(彼の話はうまい)
⑶ 媒体(話ではよく理解できない)
 一方、“話”がその形態をとびこえて、直接に伝達内容を意味することがある。
⑷ 意味内容(話はよくわかった)
⑸ 理解力(話のわからん奴だ!)
⑹ 論理(そんな話ってあるか!)
⑺ 了解(話をつけよう)
 “話”に該当する諸言語の語(speechなど)も、日本語の“話”と同程度の意味範囲をもつ。
 幼い子どもでは、聴取される言語音声に対するこのような透明性は薄弱であろうと考えられる。音声パターンが、それを受容する子どもの反応をいちじるしく規定する実験例がルリア(Luria,1961)によって示されている。3~4歳児に“光をみたらゴムを2回握って下さい”という教示を与える。これが彼らには実行できない。2回(twice)という語の意味はよくわかっている。しかし、それはいま要求されている運動と切りはなされているかぎりでいえることである。これに対して、イチーニー(one-two)というように把握動作に合わせる掛け声をさせるときには、教示どおりの2連続反応が長く維持されることがわかった。しかし、そのあとで“2回”という語にきりかえさせると、把握の連続型は崩れてしまう。
 幼い子どもの象徴行動の一つとしてのオノパトペと、これに即する育児者のオノパトペの使用が、子どもの言語発達への一つの橋渡しとして欠くことのできない階梯であったことも、子どもにおける言語理解の欠如と密接な関係がある。


【感想】
 ここでは、言語理解の透明性について述べられている。透明性とは、その談話の形式面(音声)の質にかかわらず、聞き手はその意味を理解できるということであろう。話し手が男でも女でも、大人でも子どもでも、聞き手はその意味の方に注目するので、音声は意識されない。ただ、「構音障害」「声の異常」「リズムの異常」(吃音など)がある場合には、聞き手はその内容よりも「談話の形式面」に妨げられて、意味内容が理解できなくなる。「言語障害」とは、そのような状態をいう。 
著者はさらに「話」という語には、①活動・能力、②形式、③媒体、④意味内容、⑤理解力、⑥論理、⑦了解、といった「意味範囲」があることを説明しているが、そのことと言語の透明性にどのようなかかわりがあるのか、私にはわからなかった。
 幼い子どもの場合には、相手の音声に左右されて、意味内容を十分に理解できていても、正しく従えないことがある、具体的には「イチーニー」と言われればできるのに「2回」と言われるとできなくなる、という傾向があるということだが、それが「音声パターン」に規定されるということも、よくわからなかった。
 総じて、この章の結びとして著者がなぜ「言語理解の透明性」をここに採りあげたのか、その《意図》が、私には十分飲み込めたとはいえない。
 以上で、本書の「抄読」の前半を終了する。
(2018.8.5)