梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

旅日記・「峨々温泉」「青根温泉」

2008年4月30日(水) 晴(25℃)
 午前10時、タクシーで「峨々温泉」へ行く。日帰り入浴1000円、浴室・浴槽が「宿泊客」(湯治客)とは違うような感じがしたが、泉質そのものは「おだやか」で逸品といえるだろう。露天風呂は底面が「ぬるぬる」していて、「清潔感」に欠ける。もっとも「こんな夏日」に露天風呂に入ろうとする方が無理といえるかもしれない。再びタクシーで青根温泉に向かう。ここでは、不亡閣、青嶺閣が有名だが、あえて「流辿」という旅館に入る。なぜなら、ここも「演劇グラフ」の「不定期開催劇場」として紹介されていたから。従業員に尋ねると、「6月7月公演」(劇団南座・座長南竜花)があるという。残念。どんな場所でやるのかたずねると、現場を案内してくれた。なんと「地下1階の大広間」、暗転のためには「窓のない部屋」が合理的(暗幕不要)だということがよくわかる。従業員は、幕、舞台、大道具(玄関)まで見せてくれた。人気劇団が公演すれば、旅館全体が「満室」状態になることは、必定。一度、そんな様子も見聞しなければならないだろう。日帰り温泉の「浴室」「泉質」は申し分なく、気分を満喫することができた。脱衣所のロッカーに「流辿いちろく」という署名で「色紙」が張られていたが、そこにかかれている文言に興味をひかれた。以下のとおりである。①心のままに、②心の家出がやってくる、③やってみせ、やらせてみて、言って聞かせてほめてやる、④きびしさは人を救うことが多く、やさしさは人を殺すことが多い、⑤他人へのきびしさより、自分へのきびしさを、⑥自分が人に言われてカーッとなったら、それは正しいかも。
今日で4月が終わる。この日誌を綴り始めてから4ヶ月、「断煙」をしてから20日が過ぎた。「綴る」ことは苦にならないが、「断煙」は苦しい。つくづくと、「自分はこれまでタバコを吸うために生きていた」ことを実感する。それが、この20日間は正反対。「タバコを我慢するために生きている」ことを実感する。今日我慢すれば、明日は少し楽になるだろう、というのは私にとっては大きな間違い、苦しさは「死ぬまで」続くに違いない。今、読んでいる「五代友厚」(織田作之助)の中で、五代才助の同志・松木洪庵の言った言葉を思い出す。「五代、君は容易ならざることを言うたぞ。生きるのは大変じゃ。死ぬるのは楽な道ごわすぞ。海へ飛び込めば、そいでよか。男子必死の時に当たって、こげん容易か道はごわはん。しかし、生きるのは苦しい道じゃ。苦労もせずばなりもはん。笑われることも覚悟せずばなりもはん。生きるのは大事じゃ。けっして煩悩じゃなか」
 とりたてて珍しい見解ではない。私にとって大切なことは「どう生きるか」ではなく「どう死ぬか」である。大西巨人は、夫婦が心中する作品(題名は失念)の中で、歌舞伎俳優・市川団蔵の「死に方」(実話)を絶賛している。彼は「役者を引退した暁には、誰にも迷惑をかけずに、この世からも引退しよう」と「独りで思っていた」。そして、そのことを「見事に」やってのけた。「引退披露の後、墓参(四国巡礼)を済ませ、鳴門海峡に投身自殺した」ということになっている。「謎」の部分が「迷惑をかけているではないか」という異論もあるだろう。しかし、「なんだか割り切れない」という思いを周囲に生じさせたり、行方不明の捜索を強いたり、という程度なら十分に許されてよい、と私は思う。
 テレビのニュースを見ていたら、上野動物園のジャイアントパンダ・凛々が死んだという。年齢22歳、人間でいえば70歳に相当するいうことだが、死の前日の「写真映像」を見る限り、「寝たきり状態」とはほど遠く、矍鑠とした日々の中で臨終を迎えたように、私は思った。(永井荷風に似ているかも知れない)動物でありながら「見事な死」である、というより、人間以外の動物は、おしなべて「見事な死」を遂げるといった方が、正しいのではないか。
 さて、「どう死ぬか」で最も大切なことは、まず、「独り」になることだと思う。「孤独死」という言葉があるが、「死」はすべて孤独であり、人はだれでも「独りで」死んでいく。(「家族に看取られて」とか、「救命措置がとられたが」とか、「大往生」とか、いろいろと形容されることはあっても、それらは「生き残った」側からの「一方的な」評価なのであって、死んでいく側にとっては「独り」であることに変わりはない。だとすれば、「死」の前に「独り」になっておくことことが肝要ではあるまいか。ところが、「独り」になることは容易ではない。人間は社会的動物であり、「独り」では生きていけないからである。誰でもが、家族、友人、恋人等々と「共に」生きている。そのネットワーク(しがらみ)の中に「身を置く」ことによって、はじめて「安定」できるからである。「独り」になるということは、そのネットワークから「離脱」することであり、「しがらみ」を断ち切ることに他ならない。きわめて「不安定な」状態になる。いわゆる、「精神性疾患」なる代物(いわく「統合失調症」、いわく「躁鬱病」、いわく「心因反応」、いわく「神経症」、いわく「認知症」等々)の「前提」もしくは「結果」の状態と酷似することになるだろう。人間にとって「死」とは、畢竟「コミュニケーションの断絶」のことだと、私は確信するが、したがって、「独り」もしくは「精神性疾患」状態は、「社会的な死」ということもできる。肉体は生きているが、精神は死んでいる、という言い方もできるだろう。ただし、「独り」イコール「精神性疾患」ということにはならない。常識によれば、「精神性疾患」は、肉体は健康だが、精神は病んでいる、という言い方の方が適切かも知れないからである。(私自身は、そう言い換えてみても大した違いはないように思われるが・・・)いずれにせよ、肉体は生きているが、「コミュニケーション」は断絶しているという状態をつくり出すことが、「どう死ぬか」という課題の第一歩だと思う。 そのためには、家族、友人、恋人等々と「共に」生きるのではなく、そのネットワークから「離脱」、その「しがらみ」を断ち切らなければならない。その「苦しさ」に耐えることができるか。「見事な死に方」を目指す者にとっての大きな関門になるだろう。
(2008.4.30)