梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「幼児の言語発達」(村田孝次著・培風館・1968年)抄読・61

9 言語理解 
【要約】
 言語理解は子どもの知的発達に大きな寄与をする。そのような寄与がどのように発達変化するか、その発達を規定する要因は何かについて考えてみたい。
■ 談話の自己行動調整機能
 自己行動に対する談話の調整機能の発達過程についての実験的研究の成果を検討する。
この行動調整と談話との間の機能的な関係についての基本的仮説が、ビゴツキー(Vigotsky,1963)によって提出され、その実験的追及は、ビゴツキーの後輩の手によって進められている。
《自己中心性 対 社会性》
 自己の談話をみずから理解し、その意味に対して他者の談話に対するように反応することができるのは人間だけである。言語理解は人間独自のものであり、この能力によって、人間は反省的思考ができると考えられる。しかし、この能力は、幼い子どもにはまったくないか、きわめて未発達であり、年齢が進むにしたがって徐々に発達する。この能力の発達過程を追跡することは、人間の精神発達、言語発達を研究する者の注目点となっている。
 ビゴツキーは、子どもの精神発達に及ぼす成人の談話の役割について、つぎのように指摘している。子どもははじめ成人の助力によって、言語的教示に基づいて、種々の知的行動をすることができ、そうした行動を獲得していくが、のちには自分自身に対して言語的に働きかけ、自己の談話で自己の行動を統制することができるようになること(子どもひとりの内的機制となること)、についての重要な提言をしている。これが彼のいう“内言”である。
 ピアジェは初期の研究で、談話の発達は“自己中心的なものから社会的なものへ”という方向がはっきりと存在する(Piaget,1924)としたが、ビゴツキーは、ピアジェが“自己中心的”とよんで、実用的価値がなく、社会的談話への単なる準備状態とみなした発声行動を、これこそが言語機能の精神化の発端であるとみる。自己中心談話は、(思考の実質にやがてはなるものとしての)内言の発達の出発点であり、そこから個人的な目的と論理的思考という二つの面に役立つ精神過程が発足する。談話は“自己中心的なものから社会的なものへ”という方向に発達変化するのではなく、逆に、“社会的なものから自己中心的なものが分派し”、これが思考の中核となる。ビゴツキーにおいては、自己中心的談話こそ人間独自の高次機能の芽であり、それまでは他者にだけさし向けられてた談話が、今度は自己にさし向けられ、それが自己の行動を調節するというまったく新しい働きを発揮し始める時を知らせるものなのである。


【感想】
 ここでは、子どもが言語を理解することにより、自己の行動を調節できるようになることについて述べられている。 
 かつての職場で、自閉症と診断された小学生(低学年)が、屋上が好きで、教室を抜け出したびたび屋上に昇って行った。担任は「屋上はダメです。屋上に行ってはいけません」と禁止したが、彼は「屋上はダメです。昇りません」と言いながら(独語で談話しながら)、屋上に昇って行った。彼の談話は彼の行動を十分に調節できなかったわけだが、それはなぜだろうか。彼には、ビゴツキーのいう「内言」が育っていなかった?、ピアジェのいう「自己中心的なもの」にととどまっており、担任との「社会的な関係」が成立していなかった?、「屋上」「行く」「昇る」という言語の意味は理解していたが、「ダメ」「・・・ません」「いけません」という言語の意味を理解できなかった?。
 たいそう興味深い問題である。以後を読み進めれば、何かがわかるかもしれない。
(2018.8.3)