梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

ローマ教皇の《真実》

 ローマ教皇・フランシスコは、来日後、長崎・広島で演説を重ねたが、そのポイントは以下の通りである。


《長崎》・核なき世界実現は可能で必要不可欠 ・核兵器を含む大量破壊兵器の保有を非難 ・長崎は核攻撃が破滅的な結末をもたらすことの証人である町だ ・核兵器禁止条約を含む国際法の規則にのっとり迅速に行動 ・武器の製造や維持、改良はテロ行為だ ・兵器使用を制限する国際的な枠組みが崩壊する危険がある
《広島》・真の平和は非武装の平和以外あり得ない ・核兵器を含む大量破壊兵器の保有や核抑止を否定 ・被爆地訪問は自らの義務 ・戦争のための原子力利用は犯罪以外の何ものでもなく倫理に反する ・最新鋭の兵器を製造したり、核の脅威を使って他国を威嚇したりしながらどうして平和について話せるのか ・「戦争はもういらない」と叫ぶよう呼び掛け (「東京新聞」11月25日朝刊1面)


 その後、首相官邸で開かれた懇談会で演説し「広島と長崎に投下された原爆の破壊が二度と繰り返されないように必要なあらゆる仲介を推し進めてください」と核廃絶に向けた取り組みを求めたそうである。(「東京新聞」11月26日朝刊2面) 
 安倍首相は教皇に先立ち、「唯一の戦争被爆国として『核兵器のない世界』の実現に向け、国際社会を主導していく使命を持つ国だ」と表明。「これからも核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努めてやまない」と語ったそうである。(同))
 また、菅官房長官は記者会見で「核抑止力を含めた米国の抑止力を維持、強化していくことは、わが国の防衛にとって現実的で適切な考え方だ」と述べたそうである。(同)


 ローマ教皇が最も訴えたかったことは、いうまでもなく「もう戦争はいらないと声を合わせて叫ぼう」であり「核なき世界の実現は可能であり、不可欠だ」という考え方である。それに対して首相は、《日本は「核なき世界の実現」に向けて国際社会を主導していく使命をもつ国だ》などと解説するだけで、(教皇のように)「(被爆地訪問は)自らの義務だ」などとは(己の責務については)明言しない。誰が(米国を中心とした)国際社会を《主導》するというのか。これから首相がするのは「核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努める」ことだそうだが、その《橋渡し》にどのような意味があるのか、またどのような橋渡しをするのか、わからない。教皇が求めたのは「原爆の破壊が二度と繰り返されないように必要なあらゆる仲介」である。核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努めれば、原爆の破壊が二度と繰り返されなくなるのだろうか。その根拠が知りたい。
 官房長官に至っては、真っ向から教皇の演説に「異議を唱えている」ことが明らかだ。教皇が、核抑止力では平和を実現できないと述べているのに対して、核抑止力を維持・強化していくことこそが、わが国の防衛にとって現実的で適切だ、と反論している。小賢しい論理のすりかえは、平和と防衛を《意図的に》混同させている点である。平和→防衛という曖昧なイメージを漂わせながら、いつのまにか、防衛イコール平和という価値観にすり替える。官房長官が守ろうとしているのは、文字通り(戦争を生み出す)「防衛産業」であり、そのためには、(教皇の訴える)「核なき平和」などという(倫理的)理念は無用の長物、まさに《非現実的》であり《不適切》なのである。
 図らずも、ローマ教皇の来日により、首相の「的外れ」と官房長官の「好戦主義」が露呈されたわけだが、さすがはローマ・カトリック教会の頂点に立つ人物、私たちに、それとなく「真実とは何か」を授けてくれたような気がする。
(2019.11.26)